2015年12月13日日曜日

遺伝子検査(後編)


遺伝子検査(前編)

検査の結果が返ってきた。
といっても何か書類が送付されてくるのではなく、webのマイページで見る形である。
「病気」と「体質」の2分野に分かれており、まずは「病気」を見る。
147の病気に対し、私が将来かかるリスクが日本人の平均に対しどれくらいの倍率か、
示されている。
147項目中、矢印が横向きの1倍リスク、つまり日本人として平均的なものは6項目だった。
一方、平均よりリスクの少ない0.99倍以下が83項目、1.01倍以上は58項目。
どうなんでしょう、まあまあ健康なタイプと言えるんすかね?
個々の病気に対しての簡単な説明はあるが、
総合評価は書かれていないので分析ができない。

では、2倍以上のリスクがあるワースト6を発表しよう。
第6位 アトピー性皮膚炎 2.13倍
第5位 心房細動(不整脈の一種)2.17倍 
第4位 末期腎不全 2.33倍
第3位 βサラセミア 3.01倍
βサラセミアって何だ?
コメントを見ると、
「βサラセミアのかかりやすさではなく重症化するリスクの検査」となっている、
これはヘモグロビンの低下による貧血の一種、だそうだ。

第2位 ハンセン病 3.44倍
おっと、ここにきてリスクの倍率がだいぶ高くなっているが、
「現在の日本では新たな感染者はほとんどなく、
早期治療すれば後遺症を残すことなく治癒する」とある。

第1位 もやもや病 4.03倍 

栄えある??第1位だけがいきなりの4倍台である。
以前、徳永英明がかかったと聞いた気がするこの病気、
「5歳前後あるいは40歳前後の成人に多く発症する」んだそうだ。
「脳の動脈が何らかの原因で細くなったり詰まったりする疾患」で、
「血液量を保つために拡張した細い血管の血管網が、
煙がもやもやしているように見えることから」この疾病名がついたのだそう。
日本で発見されたため、海外の医療現場でも「moya-moya」で通るらしいんだが、
他にいい名前なかったかね? 
日本人の場合、誰が聞いても「精神的に晴れない」病と勘違いするのではないか?
外国人の場合も、何だかちょっとふざけているみたいだし。
ちなみに他の脳の血管に関わる病のリスクを見ると、
脳梗塞(アテローム血栓性)0.78倍、脳動脈瘤0.71倍、
脳梗塞(心原性)0.65倍と、こちらはむしろ平均より低いのである。
ということは、脳の血管の病全般がかかりやすいのではなく、
明らかに「もやもや病」にかかる可能性が高いということか。

もう一つ気になったのは、
肥満2度は0.91倍と平均以下なのに対し、

肥満1度は1.21倍、肥満度3が1.78倍とはこれいかに?


続いて「体質」のページに移る。

こちらは125項目ある。
検査項目に対し、低い・中間・高いといった3段階で示されている。
加えて、日本人における割合の度合いが少ないものから並べられ、
最後のほうになると100%、つまり日本人はみなその傾向にある、というものになる。
で、私の場合、トップにある項目は「体脂肪率」「体重」「肥満の指標(BMI)」で
そのすべてが「高い」「重い」「高い」である。
先ほどの肥満度3に対する合致か。
こ、これは激しくショックだ。
体脂肪率の項目をより詳しく見ると、
日本人100%のうち、やや低いタイプは66.3%、やや高いタイプは30.3%、
そして私が当てはまっている「高いタイプ」は、なんとたったの3.5%しかいない。
「体重」や「肥満の指標」についても同様に3.5%とマイノリティなのだ。
私は子供の頃はガリガリだった。
20代になっても、まだ痩せているほうだった。
30代後半くらいから、だんだん贅肉が落ちなくなって、
今は確かに人生の最大体重を更新し続けていることはいるが、
肥満と言われたことはない。
後天的な生活習慣によるものだと思っていたのに、まさか先天性の素質あったとは。

その後に続くのは
タンパク質の摂取傾向」高い3.7%、
「目の角膜の厚さ」やや薄い4.3%。
目は確かに黒目が薄い色なのでそういうことかなと思うが、
タンパク質の摂取が高い遺伝子ってなんなんだ、それは。
説明を読むも、結局のところどうすればいいのかはよくわからないのだが、
日本人の65.3%はタンパク質の摂取がやや低い、31%はやや高い、だそうなので、
3.7%は珍しいタイプなんだろう。

「テロメアの長さ」長い10.2%。
日本人の46.4%がやや短く、43.4%がやや長い中で、長いは10.2%と少ない。
テロメアとはなんぞや?
「染色体をヒモとすれば、テロメアはそれをとめる金具のようなもの」で、
「テロメアが短くなると染色体は不安定になり、最終的には細胞は分裂をやめる」
それがつまり細胞の老化ということだ。
テロメアが長いのは老化のスピードが遅いタイプということですな。

テロメアでちょっとうれしくなったのもつかの間、
「身長」低い「胸」小さい「腰のくびれ」目立たない 
え? なんですか、これは。
するってーと、体脂肪率は高くて背は低く胸も小さくて腰はくびれていない、
あたしゃマトリョーシカか。
あゝ、生まれながらにして「チミはザンネンな体型ですね」と宣言されたようなものだ。
しかし、身長はこう見えて日本人女性の平均なのですよ! あってないじゃん! 
え?他2つはどうか? 
知らん!!

「病気」と「体質」それぞれに、鍵がかかっている項目がいくつかある。
本当に見てよいか、というような覚悟を確認するメッセージがあり、
OKをクリックしないと進めないようになっている。
そんなに恐ろしい結果が待っているのか。
しかしもう、マトリョーシカ宣告されている私には、
何も怖いものなんてありゃしねーぜ。
いざ開けてみたら、そのほとんどがさほど極端な数値でもなかったので、
余計に肩透かしだ。鍵のかける項目を間違っとるぞ。
ただ、一つ、「85歳以上まで長生きする可能性」については、
日本人の86.3%がやや高い、0.5%が低い、そして私は13.2%のやや低い、だった。
へぇーそうか、長生きするタイプではないのだね、私は。
まあ、いい。そうとわかったほうが、これから残りは約30年と思って、
もう少し有意義に生きていこうと思えるし。


この他にも、
「アスパラガスを食べた後の尿から独特の臭いを感じ取る能力」
「麦芽の香りを感じる能力」「苦味の感じやすさ」「光くしゃみ反射」
といった項目まである。
が、検査結果が出た後、この機関から時々メールが送られてきて、
「記憶力」「粘り強さ」「親切心」「打たれ強さ」「音感」など、
追加の検査結果を1項目500円で、唾液の再提出なしにすぐにお知らせします、という。
かー、なんという商売だ。まさに新手の占いではないか。
そういう、いかにも興味をそそるような検査項目を基本には入れず、
ワンコインという絶妙な価格設定のオプションで後出ししてくるとは、
やり方がこすいのぉ。
人の検体を弄んでやしないか。



2015年11月19日木曜日

祈り

私は、暗闇で、寝ている。
横になってはいるが、眠れない。
私の冷たく小さな足を、父の温かく大きな足がはさみ込む。
「あるところにギーギーとガーガーがいました」
父の即興の愉快な物語。

私は、暗闇で、寝ている。
深く寝たような、夢うつつだったような。
今は果たして何時なのか、わからない。
玄関の音がする。
父が帰ってきた。
母が私の容体を報告している声がする。
部屋のドアが開き、光が差し込む。
私は寝たふりをする。
父の冷たい手が、私の熱い額にあてられる。
何も言わず、光のほうへ、スーツの背中が去っていく。

遠い、昔の思い出。



昨日の明け方、不思議な夢を見た。
母が、純白のウエディングドレスを着ていた。
若い頃の母ではなく今の母だった。
父もいたが、どんなだったか、起きた時には忘れていた。
ちょうどその頃、父は永遠に旅立った。

父はいま、白い真綿に包まれて、横たわっている。
私は、おそらく初めて、父の額に手をあてた。
私の手は少し冷えていたけれど、それでも父の額よりは温かい。
私の手は少し震えていたけれど、父の額は微動だにしない。

私はいままで父を温めてやることはできなかったし、
これからは、まったくできない。

どうか、父の眠る場所は闇の中ではなく、光の中であるように、
ただ、そう祈ることしかできないのです。



2015年11月15日日曜日

Mon Salon 発売!!

まいど、宣伝でございます。

スクールとサロン経営とセンス磨きのためのスタイルMook、
『Mon Salon』(誠文堂新光社)が発売されました。

http://www.amazon.co.jp/Mon-Salon-No-01-スクールとサロン運営とセンス磨きのためのスタイルMOOK-SEIBUNDO/dp/4416715021/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1447567889&sr=8-1&keywords=モンサロン





同業者のT子さんより仕事を回していただき、
私は巻頭インタビュー記事の
藤野真紀子さん、丸山洋子さん、藤枝理子さんを担当いたしました。


日頃はシェフや外食店の取材が多いため、
今回の仕事はなかなか新鮮だった。
美しい自宅のサロンで、紅茶やお菓子などを教え、
その後にお茶を飲みながらお喋りに花が咲くひとときが楽しい、
そんな優雅なお話を聞く間、
私は「へーへーほぅ〜」と、
ただひたすら、与作のような相槌を打つばかりでありました。
なぜだろうか、こういう時、私は自分が女ではないような気がする。
さりとて木こりでもないとは思うけれど。

個人のサロンが流行っているのは、
主婦業を中心にしつつ、何らか社会と関わりを持ちたいという女性と、
お稽古ごとをしたいが、弟子のように厳しく教わるのではなく、
ゲストとして丁寧におもてなしされたいという女性、
双方のニーズが合致しているからだろう。

ちなみに私が大人になってから通ったお稽古ごとは、
スペイン語を別とすると、20代の頃のお菓子教室がある。
どれくらい通ったのだったか、1年いや2年か、
今にして思えば、その先生は「サロネーゼ」のはしりだった。
有名なお菓子研究家のお弟子さんの一人で、
ヨーロッパでの研修経験もあり、
一軒家の自宅の一室を教室として使用されていた。
お菓子を作った後は、紅茶とともに試食をした。
先生の口調は「ごきげんよう」な感じだった。
そうか、私も20年以上前にサロネーゼしてたんじゃん。与作じゃないじゃん。

けれど、私の場合は、個人的な趣味というよりは、仕事上、
プロの料理人やパティシエ相手に取材するため、
本格的な菓子のプロセスやコツを知っておきたいからというのが動機だった。
(もちろん料理も本当なら習うべきだっただろうが、
 お菓子の技術のほうが見えない部分が多かった)
そして、スペイン語もそうなのだが、
基本的にグループレッスンが苦手で、お菓子教室もマンツーマンを選んだのだ。
先生が私の作ったお菓子を味見している間、
「ど、どうでしょうか・・・」と、審判を待つ身。
優雅にみなさんとの会話を楽しむという経験はない。
サロネーゼにはナレネーゼ。
与作は独占欲が強くて質実剛健派なのである。
ホーホー。





2015年11月1日日曜日

遺伝子検査(前編)

いつもの新聞集金。
お兄さんは「お知らせがあります」と、1枚のチラシを差し出してきた。
「遺伝子検査、身近になりました。」

テレビなどで見て、ちょっと気になってはいたが、
高そうなので、手が出せずにいた。
が、今ならば、県の助成で40%引きだという。
それでも税込1万9310円するのだが、
この頃、親が弱って何かと世話する機会が増え、
自分自身の身体のリスクも何かわかるのであれば、
調べてみたいと思った。





申し込むとすぐにキットが届いた。
人間の細胞の中には30億文字の遺伝子情報が収まっており、
それを読み取って、体質や将来の病気の傾向などを解析、
3大疾病を主に280項目もの検査結果が出るという。
しかも、検査に使う細胞とは、唾液から取るのだ。
指先を画びょうのようなもので切って血液を取る検査を何かで見たことがあるのだが、
唾液であればチクリも何もない、一番ラクな検査ですねえ。

レモンの写真のカードが入っていて、なんじゃこれは?と思ったら、
唾液をいっぱい出すのに使っておくれということだ。
おそらく海外仕様なんでしょうね、
日本人だったら梅干しの写真のほうが
もっと唾液が出るのではないかなあと思うが
それは私だけかしらん。




こちら(中央)が唾液を入れる容器。
黒い線のところまで唾液を入れるように指示があるが、結構な量ではないか?
改めて考えてみると、歯磨き以外に日頃、
ただ単に唾を吐くという行為をしたことがない。
ええ、ホントですよ、一応アタクシも女子でございますからね。
なので、意外と難しい。
勢いをつけてキレよく吐こうとしても、容器の口が狭いので躊躇してしまう。
じわーっと吐くと、ヨダレが垂れるみたいな感じになってしまう。
が、どうやら容器は上げ底になっているのか(白いフィルムで見えない)、
それとも唾液の量が多いのか、6、7回程度でボーダーラインのところまできた。
レモンのお助けカードを見ないうちに終わった。
泡立っていて、自分の唾ながらキモい。
こんなキモい液体の中に、未来の私の身体のデータが本当に入っているのか?
上の漏斗をはずし、写真左にあるキャップを強く締めると、
中の青い液体が唾液部分に落ちるのでよく振って混ぜよ、とある。

すでにポストに投函してきた。
検査結果は2週間くらい後になるらしい。
さあて、どんな結果になるのかな。
ちょっぴりコワイけれど、
まあ、新種の占いみたいなもんだと思えばいいか。
それにしてはコストがかかり過ぎているか。








2015年10月27日火曜日

親を病院に連れて行く

昨日、母と耳鼻科に行った。
いや、正確には「母を耳鼻科に連れて行った」。
耳が遠くなったことを認めない母を何とかなだめ、
ようやくここまでこぎつけたのである。

その病院は、インターネットで予約が可能なのだが、
初診だけは直接窓口に行かなければならない。
朝10時に行ったところ、すでに45番、
1時間か1時間半は待つとのこと。
進行状況もネットで見られるというので、
いったん親の家で待機することになった。
今どき、老人たちもネットができないと病院でも苦労することになりますね。

そんなにかかるのであればパソコンを持ってくるんだったな。
原稿の締め切りが近く、仕事はいくらでもあるのだ。
しかし、待つ間、今度は父が自身の病状についての愚痴を
ブツブツと私に漏らし続けている。
私は目を合わせることもなく、何となく相づちを打ちながら
iPadで耳鼻科の進行状況をぼんやり眺めていた。
もう父は、死ぬまで体調のことだけをテーマに生きていくのだろうか。
これといってやることもなく、それならばそれである意味、
体調の話が生きがいと言えるのだろうか。 


11時半近くにもう一度病院へ行ったが、
結局45番が呼ばれたのは12時だった。
検査の結果、やはり中度の難聴だった。
補聴器をつけることを医者が強制的に指示することはできない、
あくまで決めるのは本人次第だと前置きしながらも、
軽度ではないことは確かだと言う。
母も観念したようだ。
病院のすぐ近くに補聴器専門店があるので(ちゃんとコバンザメ商法しているなあ)
明日にでも行ってみるという。

これで父の愚痴リストの中の一つがとりあえずは消えるだろう。
しかし、父も私も「お母さんのためなんだから」とくり返すが、
本人は困っていないし、できればつけたくないのだ。
だから、本当は母のためではなく、
母と会話する私たちが不自由だから、というのが正しいのかもしれない。


幼い頃、耳鼻科によく連れて行かれた記憶がある。
耳鼻科は恐ろしいところだった。
医者が額につけていた、真ん中に小さな穴のあいた円盤の鏡や、
耳や鼻をグリッと開くペンチみたいなオドロオドロしい道具が並び、
それを見ただけで震え上がったものだった。

昨日も、診察室から幼い子の号泣が何度も聞こえた。
診察室に入る直前、母は緊張をほどくように「フーッ」と肩を上下させて一息ついた。
私は緊張していなかったが、親を病院に連れて行くという初めての体験に対し、
これからも、親と子が逆転していく、いくつもの初体験があるのだろうなと思った。




2015年10月17日土曜日

今年も「味覚の一週間」

10月19日より「味覚の一週間」が行なわれます。
その活動の一企画「味覚の食卓」の編集の仕事を担当いたしました。
今回で3回目の任務です。
「味覚の食卓」は、この活動に参加しているレストランに、
五味を味わえる料理またはスイーツのレシピを1品、
料理写真とシェフのポートレートと共に提供いただき、
私はそのレシピをまとめる担当。
期間中、レストランを訪問したお客さんに、レシピカードが配布されます。
今年は100軒を超えるレストランのシェフに参加ご協力をいただきました。

サイトはこちら。

http://www.legout.jp


今年の参加店一覧を先に出しておくべきではないかと毎年思うんだけれど、
なぜかイベントが終わってから更新されるようです。
そのため今は2014年度の参加店一覧になっていますね。









2015年10月12日月曜日

目が黒くなる、って言いたいんですよ

9月からおかしい。
私の体の左側、背中から腕、手首に至るまでが痛くてたまらない。
元々、ひどい肩こり症ではあるが、
いつもの「こっている」つらさとは訳が違い、
とにかく「痛い」のである。
これがいわゆる四十肩? 五十肩?とも思ったが、
その場合は、腕を上げることができないらしい。
私の場合、朝起きた時が一番痛みがひどく、顔を洗う体勢は悲鳴が出るほどだけれども、
それ以外の時間帯は、腕を上げたりまわしたりなどは普通にできる。
一定方向に腕を動かすと痛みが走るというわけではなく、
何もしていない状態で、常にズキンズキンと痛むのだ。

耐えきれず、9月の中旬に2回、近所のカイロプラティックに行った。
それでも治らず、整形外科に行った。
待合室では、私以外の患者すべてが高齢者。
ミネラルウォーターサーバーから水を注いで飲んでいるおばあさんに、
別のおばあさんが「これは何か体に良い飲み物なんですか?」と聞いている。
「わかりませんが、ご自由にとのことなのでいただいてますの」
「では私も。(ゴクリ)あらほんと、なんか効きそうな味わいですね」
何が「ほんと」なのかわからないが、信ずるものは救われるといいですわね。

首のレントゲンを撮ったところ、ストレートネックだと診断された。
そして、首の軟骨がすり減って骨と骨が当たり、それが神経にさわって腕にまで痛みが
及んでいるのでしょう、と早口でそっけなく若い医師は言う。
鎮痛剤と筋肉の緊張を緩める薬を胃薬と共に処方された。

2日ほど飲んでみたものの、わずかにやわらいだような気がする程度で、
相変わらず痛みが続いている。
また病院に行ったならば、今度は注射を打つことになる。
あくまで痛みの緩和であり、根本的な治療ではないだろう。
薬嫌い、病院嫌いの私は、「あら、ほんと。治ったわ」という気持ちにはなれない。

そんな折、某有名シェフとフレンチレストランで夕食の席をともにした。
私の左腕の事情を話すと、すごい気功師を知っていると言う。
どんなに具合が悪い状態でも、その人のところへ行けば1回か2回の治療で必ず治る。
行きはタクシーから這うような状態が、帰りは身軽に歩けるくらい。
⚪︎⚪︎料理長(和食の老舗有名店)は、けんしょう炎で包丁が握れなくなったのに、
一発で治ったんだよ、と。
こちらが何も言わなくても「ゴルフやったでしょう」などと見透かされてしまうそうだ。
それほどのスゴ技にして、1時間6000円と料金は一般的。
私は「是非ともその方を紹介して下さい!」と懇願し、電話番号を入手した。

シェフからの紹介ということで、翌日に診てもらえることになった。
都内某所、普通のマンションの一室(おそらく自宅)。
出てきたのは、ペギー葉山の旦那の根上淳と美味しんぼの海原雄山を足したような、
濃い顔の60代くらいの男性。
白い袈裟のようなものを着て、髪を一つに結わえている。
怪しいっちゃ怪しいのだが、
なにしろ、シェフたちのお墨付きなのであるから、間違いはないはずである。

左側を上にして横向きに寝るように指示される。
シェフから「背後に回られてじーっと手かざしされるからナンだけれども
気にしなくてよろしい」と言われていた通り、
センセイはうしろから、私の腕や肩に触れるか触れないかくらいの距離で
手を動かしている。

ちなみに、私は気功初体験ではない。
20代の一時期、今でいうところのパニック障害に陥ったことがあり、
その時に中国人の気功師のところにしばらく通っていた経験がある。
目をつむって気功を受けている間、こめかみや唇など、
顔のラインにビリビリと弱い電流のような、むずかゆい何かを感じ、
さらにそれが移動していくという不思議な感覚を味わい、
確かに気功のパワーはあると実感した。

しかし、あれから20年ぶりの気功である。
中国人のセンセイは物静かな青年で、私は椅子に座った状態で、
ほとんど体に触れられることはなかったが、
今はあまりにも濃すぎるセンセイのキャラ、私は布団で寝ている、
指はちょいちょい体につく、という状況のため、私は少々落ち着かない。
できるだけ無の境地になって、気功のパワーをピュアに受け止めようとするのだが、
どういうわけか、私の頭の中には「卑劣なマッサージ師」という
アダルトビデオ的妄想が浮かんでしまうのである。
そのうち、私が何もしゃべっていないのに、
「私はそんな者ではありませんよ」と見透かされて言われたらどうしようかと
ハラハラし、ますます落ち着かないのである。

「引っ越しを手伝うようなことをしていませんかね?」とセンセイ。
よかった、妄想はバレていない。
しかし、的中もしていない。
9月の上旬にデザイナーと打ち合わせする際に、
資料の本をたくさん入れた、ものすごい重いバッグを持ってしまい、
それ以来、調子が悪くなった気がする、でもそれは右肩にかけていたので
なぜこんなに左側が痛いのかはわからないと私は答えた。

1時間のうち、最初の30〜40分くらいが気功で、
残りの20分くらいは軽めの整体を施された。
「確かに首の具合もよくないけれど、腕の痛みと首とはまた別問題ですよ、
っていう話をしたいんですよ
「腕のつけ根のあたりに、コリコリした塊があるでしょう、
ここが腫れて血管を圧迫しているせいで腕が痛いんですよ、って言いたかったんです
センセイは語尾が独特の言い回しをする。
今、話しているのになぜ「したいんですよ」とか「言いたかった」と言うのだろうか。

気功を受けたその日と、次の日くらいまではなかなか調子がよかったが、
3日目の朝、起きるとまたしても痛みが始まってしまった。
その次の日も、またその次の日も、ちっともよくならない。
シェフは「1回あるいは重症の場合は2回で」と言っていたので、
私はもう1回、気功師に電話を入れた。
今度は2時間やらせてくださいという。


引っ越しと言われてから一つ思い出したことがあった。
7月、私は室内の模様替えをし、本棚と机の位置を入れ替えた。
あれから2カ月以上経っていたので、因果関係があるとは思い浮かばなかったのだが、
その旨を気功師に伝えると、やはりね、とばかりに彼はうなずいた。
「右のほうが筋肉があるんですよ、だから力のない左には負担が大きすぎたんです、
 ってことを言いたかったんです。本を全部出すだけでもかなり重いのにね、
 日を分けてやらず全部いっぺんに最後までやっちゃったもんだから・・・」
驚きだ。私はそこまで細かく話してはいないのに。やはり彼には何かが見えているのか?

ふと夜中に模様替えを思い立ち、すべて一人でやった。
本を床に積み上げるだけでも一苦労だったが、
やり始めると止まらなくなっていた。
家具の足の下にかませることでスルーッと動かせるコースター状の滑車を使ったのだが、
滑車を入れるその瞬間だけは、家具を片手で持ち上げて支える必要がある。
何とかやり遂げ、アタシってばスゴイ!と自分を褒めたたえたのだが、
私はやっぱり大川栄策ではなかったのだ(←わかる人にはわかる説明)。

それだけの時間の経過を前回は考慮できていなくてごめんね、とセンセイは言った。
2カ月前からの損傷だと何か気功の仕方が違うんだろうか?
今回は最初の1時間が気功で、残り1時間が整体だった。


今後はここまで悪くなる前に定期的にメンテナスとして通ったほうがいいのか、
あるいは駆け込み寺的に来るのでよいのかを聞くと、後者でいいと彼は言った。
「大丈夫、あたなの場合は、目が知らせてくれます」
「え?」
「目が黒くなりますから」
私の目の黒いうちは・・・と、むしろ生きてしっかりしている意味としては使われるが、
具合が悪くなると目が黒くなるとはこれいかに。
「目の周りが黒ずんできたら具合悪い、ということなんです」
ああ、そういう意味か。

センセイの独特な語尾は、ひょっとして、
私の体の声をメッセンジャーとして伝えているんですよ、
という意味だったのかもしれない。

「あなたは早く寝ないとダメです。睡眠時間もそうだけれど、
 寝入る時間が重要で、1時過ぎとかに寝ていてはダメ。
  遅くに寝ると、次の日、仕事するのが嫌になるタイプですってことなんです」
仕事するのが嫌になるタイプってどんなタイプや?
私の体がそう伝えているのか?
いつも1時過ぎに寝ることが多いのだが、ということは・・・


2回目の気功に行ったのが一昨日。
昨日そして今日と、まだ腕の痛みは続いている。
私の目は黒くなっているだろうか。
ああ、もう12時過ぎてしまった。
早く寝なければ、明日仕事するのが嫌になってしまう。

ところで、スゴ技でたちまち治すという話はどうなっているんですか、って
言いたいんですよ、私は。


2015年9月29日火曜日

シェフ108号発売!!







すでに書店に出ています。よろしくお願いいたします。

巻頭特集は「レストランを継がせる想い、継ぐ覚悟」。
オーベルジュ オー・ミラドー、北島亭、オトワレストラン。
いずれも、今まさに2代目にバトンタッチしようとしてるお店です。


グランシェフは ル・マノアール・ダスティンとレストランモナリザ 恵比寿本店。
秋のスペシャリテはレストラン リューズ、ロテスリーレカン、
ラ・カンロ、ルカンケ、ラール・エ・ラ・マニエールを掲載。
その他、レストラン ペタル ドゥ サクラ、レストラン パフューム、
エマーブル、レストランユニック、アドック、リアン、
オ デリス ド ドディーヌ、ビズ神楽坂、ニ・ド・ワゾォー、
アデニア、レストランFEU、ル・ジャポン、
アンフュージョン、ビストロ ホリテツ、コンヴィーヴィオ、
パッソ ア パッソ等の皆様にお世話になりました。



2015年9月25日金曜日

夜の訪問者

夜、ソファに座ってテレビを見ていたら、
テレビの斜め上、ロフトの角から、何者かがカーテンを伝い降りてきた。
クモである。足の長い、巨大なクモだ。

虫ってやつは、こちらが見ている気配がわかるんだろう、
「ヤベ、バレちゃった」とばかりにカーテンの途中でいったん動きを止める。
と思ったら、次の瞬間、目にも留まらぬ速さで壁伝いにどこかへ消えた。

日頃から時折、家の中でクモに出会うことがある。
しかしその場合のクモは5ミリ程度のもの。
ほっておくか、気になる時には
空のペットボトルを使い、その口の中心にクモが来るようにして壁に押しつけ、
中に入り込んだらフタをして、外へ逃がす。

しかし今回のクモはデカくて逃げ足が速く、とても捕まえられない。
私は仕方なく新聞紙を筒状に丸め、ソファに待機した。
しばらくして、机の上の壁に這い出てきたのを発見、叩こうとしたが
私がビビッているせいか、うまくいかない。
またしても逃してしまった。

殺虫剤を探すと、どういうわけかアリ用のものしかなかったが、
一応それを用意して再び待機。
やがて、テレビに気がそれ始めた頃、
脇のカーテンを伝って登っていくクモの姿が。
まるで「やれやれ、お家へ帰ろうっと」という感じで、元来た道を戻っているのである。
いったいいつからあいつはロフトの住人になっていたのだろうか。

今が最後のチャンスと、私は殺虫剤をスプレーした。
クモはささーっと下りて、テレビの裏、そして観葉植物の鉢の裏へと移動した。
その間も私は殺虫剤で追いかけた。
やはりアリ用では致命傷にはならないようだ。
しかしだいぶ動きはゆっくりになったので、私はとどめの一撃を加えた。
長かった足は小さく丸まって、動かなくなった。

朝のクモは縁起がよくて、夜のクモは「ヨクモ来たな」と殺したほうがいいと聞く。
あるいは、クモは益虫だから殺さないほうがいいとも。
調べると、殺したクモはアシダカクモといい、
ゴキブリなんかを食べてくれる益虫で、人間には害を及ぼさないが、
見た目が気味悪い不快害虫だとある。

殺さないで何とか外に出す方法はなかっただろうか。
ロフトの住人として黙認してもよかったのではないだろうか。
今後、我が家にはゴキブリが出ることになるのだろうか。

テレビでは、シリア難民の受け入れ拒否を示す国のニュースが流れている。
私は罪の意識に苛まれる。


2015年9月12日土曜日

父の手

私は4年半前にフリーランスになるまで、
スマホはおろかケータイも持ったことが一度もなかった。
それまでは必要性を感じなかったのと、
電車内で全員がケータイを見つめる光景や、
私と一緒にいてもケータイに気がとらわれている様子が嫌だったからだが、
両親はいまだに持っていない。
これはひねくれ者の血筋か、家訓か。


昨夏に1カ月入院して以来、
父は日に日に細く小さくなっていき、足はおぼつかなくなり、
好きだった読書や映画鑑賞もまったく興味を示さず、
ただ病院に通い、大量の薬を飲み、
口を開けば体に関する愚痴を語るだけの日々を過ごしている。
夜眠れないと、精神科(最近はメンタル科と言うらしい) で安定剤や睡眠導入剤まで
処方してもらっている。
が、それでたとえ夜眠れても、すがすがしい朝ではなく、
翌日昼間も頭がぼんやりしているという。
それだけの薬を飲んでいたら、当然のことながら腸内環境は悪くなる。
今度は腸の検査にも行ったらしい。
ピンピンコロリしたいが、持病は治る見込みなく、もはやピンピンは望めず、
さりとて、コロリにもなかなかならず、
生きていることに何の希望も見出せないようだ。
マンションの屋上にも行ってみたが
なかなか飛び降りる勇気はないという。

眠れなかったら開き直って布団から出てテレビでも見ればいい、
次の日の昼間、眠くなった時に寝ればいい、
何なら、そんなに死にたいなら、三日三晩不眠に挑戦してみたらいい、
(できずにどこかで必ず寝るはずだから)
と私は言うのだが、
「つい我慢できず、薬くれーって、ヤク中毒みたいなもんだな」
と、なかなか聞く耳を持たない。
あくまでコロリと死にたいのであり、
ジワジワとした苦痛はつらいのだろう。


一方、父より9歳下の母はスポーツクラブに通うくらいの元気がまだあるが、
耳が遠い。一度、病院に行き、いろいろな補聴器を試したのだが、
それがどれも合わなかったことに加え、プライドがあるのか、
補聴器の話をすると非常に嫌がる。
しかし、こちらも日ごと悪化しているようで、
一緒に暮らしている父には、気が気でないらしい。
さらには「お母さんはどうも認知症初期のようだ」と父が言い出した。
時折、母が出かけている間に私にこっそり電話をかけてきて、
愚痴をこぼすようになった。

外出中の母に自宅の父が連絡を取りたい場合、
あるいは二人が病院などに出ている時に(もはや父は一人で外にはほとんど行けない)
何か緊急事態が起きたらすぐに私に連絡できるように、
携帯電話が必要だ、と、
ひねくれ家系の長がとうとう折れた。

私は自分と同じ会社のもので、シニア向けの携帯を吟味し、それを1台購入した。
あくまでケータイだが見た目はスマホ仕様で、
単純化させた見やすい画面、使用料も安い。
緊急ブザーを鳴らせることができ、また、
それと同時に私のスマホにつながるシステム。
GPSで位置を私が把握でき、
24時間使っていないとそれも私に連絡が届く。

しかし、そのケータイはあまり売れていないのだろうか、
取り扱っている店が少なく、扱っている店を訪れても、
料金プランを店員は把握していなかった。
今どきのシニアは、とうにケータイやスマホを使いこなし、
こんな「年寄り騙し」なケータイなど使いたくないのかもしれない。


両親を前に、ひと通り、やり方を説明する。
扱いに慣れるにはしばらく時間がかかるだろうが、
それよりも意外な点で困ったのは、
両親(特に父)が触れても、タッチパネルの反応が鈍いということだ。
カサカサパキッと折れる枝のような父の指とケータイの組み合わせは
あまりに異様でせつなかった。
「眠れない夜は、ヒマつぶしに私にメールしてみてよ」
と伝え、両親の家を出る。


あれは私が幼稚園生の時。
運動会でマーチングバンドを組んだ際、
女の子の花形であるトワリングバトンを私も希望したが、
その地位につけるのはすらりとしたキレイどころであり狭き門、
体の小さい私にはカスタネットが与えられた。
シロフォンでもドラムでもなく、その他大勢、いわば二等兵。
悔しかった。バトンが欲しかった。
それを父にねだったのかは記憶にないが、父はバトンを買ってくれた。
腕をまっすぐにのばし、手首をクルクルと回す。
水平に回す方法もあれば、縦に左右に回す方法もある。
バトンは金属製で重い。先端にはゴムがついているものの、
振り回して顔に当たればそれなりに危険だ。
父はまず、ホコリはたきを使って手本をやってみせた。
何か他にふさわしいものはなかったんだろうかな。
でも、父はあくまで真剣に教えてくれたのだった。
父の手は、しなやかだった。


どうせなら、我が家ももう少し早くケータイを持つべきだったかな。
そうしていたら、少しは楽しいやりとりができたのかな。
人生最初にして最後に両親が持ったケータイから私にかかってくることは、
悪い知らせ以外、望めそうにないのだ。



2015年9月6日日曜日

ホテルオークラの思い出

ホテルオークラ東京の本館が閉館になった。
惜しむ声が多いとのニュースが報じられている。

私にとって、ホテルオークラ(昔は東京とはつかなかった)は
仕事に行く場所だった。
小野正吉総料理長の晩年時代、
私は連載のインタビューを受け持っており、定期的に通っていた。
1990年代の話である。
当時、小野氏には『シェフ』の顧問もやっていただいていたので、
年始の挨拶などにもうかがい、
小野氏のフランス国家功労章シュヴァリエ受章のお祝いの会や、
あるいは業界関係者のパーティーもよく行われていたので、
何かにつけ訪問する機会があった。
南北線はまだ開通しておらず、
虎ノ門駅から虎の門病院脇を歩いて行くルートで通った。
駅から遠く、上り坂で息を切らしていることもあり、
また、20代の私には、小野氏のインタビューは非常に緊張する仕事だったので、
少し早めに到着し、ロビーで呼吸をととのえるのが常であった。
オークラならではの和モダンなロビーは、
不思議と心を落ち着かせてくれる空間だった。

小野ムッシュ(と呼ばれていた)は私と同じ(いや、私が同じ)浜っ子で、
ちょいとべらんめえな口調だった。
私は緊張しながらも、時々、まるで親戚のおじさんか祖父と
話しているかのような気持ちにもなった。

最後のインタビューは、体調を悪くされている時期で、
いつでも休めるよう用意されていた客室に通された。
探せばその時の録音テープがどこかに残っているはずだが、
特に印象的だったのは、
どなたかからの差し入れらしい和菓子があって、
それをすすめられたこと。
小野ムッシュがなかなか手をつけないので私もそのままにしていたら
「いいからあんた、早く食べろ」と言われた。
おそらく、小野ムッシュはもう、和菓子を食べる欲などなかったのではないか。
シャイな人だった。


そして、もう一つの出来事。
やはり20年前のこと。
私はオークラの別館から本館に向かう上りエスカレーターに乗っていた。
私の前にも後ろにも誰も人はいない。
見上げると、数人が一列に連なって下ってくる。
何か黄色い光を放つかのような集団。
左右が壁で他に何も視界には入らない。
だんだん近づいてくると、
前後の人に挟まれた真ん中の人が誰であるのかがわかり、
私は「ハッ」とした。
ハッとした顔のまま、かたまった。
間もなく、私とその人がすれ違うというところで、
その人はにっこり微笑んで、わざわざ体を私に向けて、手を合わせた。
私も思わず真似て合掌した。
その人とは、ダライ・ラマ14世だった。

私にとってホテルオークラは、感謝と奇跡の場所である。








2015年8月30日日曜日

やっちゃう人生

週末、Mちゃんとフレンチの夕食をともにした。
Mちゃんは元々は編集者だが、最近は部署が異動になって、
インバウンド関係に携わっているという。

いつだってMちゃんには驚かされる。
彼女は30代で東京に自分の家を建てた。
子供の頃からコツコツ貯めてきた貯金で、土地をキャッシュで購入したのだ。

使う時はドカンと、使わない時は徹底的に倹約、がMちゃんの基本姿勢。
普段、会社の帰りにラーメン屋に寄ると、ラーメンは注文せず、
サイドオーダーの卵かけご飯だけを注文するという。
そうしてお金が貯まると、
話題の高級レストランやホテルに行ってグルメを楽しんだり、
いそいそと海外旅行にでかける。
「来週から仕事が暇になるので、ちょっとウズベキスタン行ってくるね」
みたいなメールを平気で送ってくる。
ウズベキスタンって、伊豆にでも行くような感覚で行くところなんですかね?

海外へは基本、一人でツアーに申し込み、そこで誰かと仲良くなる。
来週からはメキシコに行くという。
ウズベキスタンで知り合った、親くらいの年の女性と一緒に行くそうだ。

彼女が20代の頃、インドに一人旅をした時に、
宿泊していたホテルのインド人オーナー男が彼女の部屋をノックしてきたという。
開けると、お茶を持ってきたので部屋に入れると、
オトナのかんけーを迫られた。
断ると、男は部屋を出ずに、その場で何か一人でおかしなことをしていたという。
そんな話を、彼女はこともなげに言う。
そんな話ならいくらでもあるのだ。


Mちゃんには、旅をする時にいつも決まってはくサンダルがある。
通販の製品で、いわゆるオフィスサンダル、1900円。
これが一番よいらしく、これまで29足同じものをはきつぶしてきた。
近々、それが少し値上がりになると知り、3足まとめて購入したという。
しかしその一方で、6万円のプラダのサンダルもはく。

旅行雑誌の編集部勤務だった頃、
タイアップ記事の袋とじをつけることになり、
「破れないよう丁寧に開封してください」みたいなコピーを
袋とじの隅っこに入れるため、
彼女はコンビニでアダルト雑誌を片端から見て、
どんなふうに書かれているのか研究したという。
袋とじ部分をじぃーっと凝視しては、また次のアダルト雑誌に手を出す女子。
周囲の男性諸氏はどう思っただろうか。

また、ある時は、ラブホテル街エリアを地図に載せたらいいのではと考え、
人気まばらな早朝に、画板を首からぶら下げて、
ラブホ街をウロウロしてホテルの位置を調べて書き込み、
出てくるカップルたちに怪しまれたそうな。
でも、その地図を掲載した本はよく売れたらしいから、
Mちゃんのアイデアは当たりだった。

テレビをつけたら、偶然にもそこにMちゃんが映っていた、ということが過去2回あった。
旅行雑誌編集者としておすすめ情報のコメントを、
明石家さんまら有名タレントを前にして語っていた。
彼女から放映を知らされて観た番組もある。
おしゃれな狭小住宅を紹介する番組で、
Mちゃんはリポーターのミスターちんをガラス張りの浴室に案内し、
「このお風呂エロいでしょ〜」などとかまし、
「人によるでしょーが」とミスターちんが若干キレ気味に答えていた。
実際には、彼女はもっとたくさんしゃべったが全部カットされていたらしい。

なんだか下ネタ系のエピソードばかり書いてしまったが、
その方面のみでおもしろいということでは決してない。

どうしてそんなにいつもアクティブなの?と私が聞くと、彼女はこう答えた。
「生き急いでいるのかもしれない。
 私、自分が長生きすると思えないんだよね。心臓弱いし。
 だから、永ちゃんのCMみたいに、やっちゃう人生。
 やりたいことどんどん早くやらないと、もう先が長くないから」

私には、Mちゃんがおばあさんになって、
相変わらず素っ頓狂なことをしている姿が想像つくけどと言うと、
「ありがとうございます」と彼女は答えた。
しかしそれはあり得ませんからとでも言いたげな、
神様にはっきりと寿命を知らされている人のような表情を見せた。
私はなんだか少し怖くなった。


2015年8月9日日曜日

大阪→津山

関西より帰ってきた。
まだ仕事になるかどうかわからないのだが、
ある人の本を作りたいと思って、その人に会いに大阪へ行ったのだった。
お互い、本を出したいことの意思は一致、
まずは私が企画を考えるということで夕方に別れた。



大阪駅に向かう電車に乗る。
小さい兄妹が母親と乗ってきて、私の横に2人とも座りたそうなので詰めると、
女の子はありがとうと言って座り、さらにもう一度、私の顔を見上げて
「詰めてもらってすいません」と、すいの部分に力を入れた大人のような口ぶりで言う。
東京の子だったら、なかなかこんなふうには言えんよなあ。



大阪の街をブラブラ散策したいところだが、
気温37℃、生命の危機を感じたので断念、
まだ日が暮れていない5時半過ぎ、バルに入る。
直前に美味しいクロックムッシュを食べたばかりで
すでにお腹は半分近くうまっていたが、
バルだから小皿だろうと、3品(茄子・ハモ・鴨)をオーダー、
お酒はモヒートと迷いつつシェリーのマンサニージャを。



店は夜の営業がスタートしたばかりだが、
もう女性同士のペアが3組入っていた。
私のすぐ近くの人は、ノースリーブのタイトなワンピースを着ている。
ショッキングピンクである。





イメージで語られるコテコテな大阪女が、しかしこうして本当にいるのであるな。
「ゆーこはなあ」と自分で自分の名前を呼んでいる。
「あんなあ、ゆーこはなあ、結婚が仕事!」
ゆーこはモヒート2杯をさっさと飲み、出て行ってしまった。

仕事に戻るのかな。

サービススタッフの男性に
「なんか、久しぶりですよね」と言われる。
いえ、初めてですがと言うのが申し訳なく思う私って

見かけによらず優しい女だよね。違うのか?

小皿と思いきや結構ボリュームのある料理だったため、
2皿目後半からきつくなってきたが、結局は3皿目まで完食。
膨れた腹をさすりつつ歩いてホテルまで帰る。

人通りの激しい街角のコンビニの前に立っておにぎりを食べるOLがいる。
さっきも同じ場所で違うOLが
おにぎりだったかパンだったかを食べる姿を見た。
これも大阪女子のスタイルなんだろうか?




翌日は、岡山県津山市に住む友人Yちゃん宅を訪ねるため、
大阪駅から高速バスに乗った。

バスは約3時間で2750円
電車だとたいして時間は変わらず7000円近くする。

途中1回、パーキングエリアでの休憩をはさむ。
そこで購入したのだろう、斜め前の席に座る男が
普段見たこともない油っぽい変なせんべいをザクザクとむさぼっている。





食べつつむせている。中年の証拠である。
袋の底にたまったカスもすべてむせながら平らげた後、
なぜか機内食のタイプのカップに入ったミネラルウォーターを一気に飲み、
最後の最後の1滴が口中に滴り落ちるまでじっと仰ぎ待って完璧に飲み干した。
そして、前の席の人が引いていたカーテンの端の裾と、窓下の布部分に、
まるでその質感を確かめるような手つきで、油の指を何度も拭いていた。


渋滞があったせいで、津山駅には予定より25分オーバーして到着。

Yちゃんは小学校から同じ、地元・横浜の友人だ。
旦那氏の故郷の津山に引っ越してからも、
彼女とは横浜に帰郷の折に会っていたが、
こちらの家は10年前の新築時以来、2回目の訪問だ。
寝そべることもできる広さの玄関、
彼女が見立てた可愛らしいインテリアのLDKの雰囲気などは変わらない。
変わったことは、トイプーちゃんが家族に加わっていることと、
一人娘のMちゃんが、舟木一夫が歌う高校3年生に成長していたことだ。
彼女は初めてボーイフレンドができたばかりだが、
受験勉強のことで頭がいっぱいで、どうも彼氏にツレない態度らしい。
むしろYのほうがまるで自分の彼氏のように盛り上がっている。
「うちに連れてきて自分の部屋でイチャイチャすればいいのに、なんでそう思わないの?」
などと、母親らしからぬ扇動をくり返している。

旦那氏とは10年ぶりの再会だ。
結婚前の彼氏時代や、津山に引っ越すまでの新婚時代など、
彼を交えて時折一緒に遊んだ。
20代の頃の思い出話をあれこれしている中で、
彼は私が当時住んでいた家についてこう言った。
「暗い照明の部屋で、ちあきなおみを聴いていたよね」
え、いや、覚えていない、何よ、それ。
しかし、そんなふうに彼の中で私の思い出は刻まれ、生き続けるのだ。
そして今日会ったことは10年後、どんな私だったと語られることになるだろうか。


テレビで取り上げられて有名になった津山の煮こごりを食べさせてもらう。
牛スジやアキレス腱などを醤油味で煮て冷やし固めたもので、
パッケージには大きく「秘密」という文字が貼られている。
何かが秘密らしいが、秘密であるということ自体は公言してはばからない。
彼女が店に買いに行った時には、非売品とも書かれていたが、
ステーキ肉と共に、これは?と聞いたら普通に売ってくれたらしい。
ちなみに彼女の一家は、私が今回リクエストするまで
この食べ物の存在を知らなかったという。
地元は広く、日本は狭い。


帰りは、ワタクシ人生初の深夜高速バスに挑戦しました。
津山22:10発のルミナス女性専用号、新宿西口に翌朝6:35着。
このバス、スタートは倉敷より南に位置する下津井からで、なんと18:40発、
最初から乗っている人は12時間もの長旅である。
それで1万200円、安いには違いないが、
岡山から東京まで新幹線で3時間20分1万6300円であるから、
いまひとつバスのメリットが感じられないのであるが。
津山は現地での最後の乗車駅になり、9800円。
私は事前にネットで購入したため早割が効いて8820円だった。
津山の場合は岡山空港や岡山駅に出るのに時間がかかるため、
このバスはなかなか重宝する手段かもしれない。

車内は横一列につき3席で、席間に空間があるのと、女性のみのため、
隣の人のストレスはさほど感じない。
私は後ろから2番目の窓側だった。
一番後ろの席は誰もいなかったため、シートを心置きなく倒せられて良かった。
筒状に丸めて袋に入れられる薄手のダウンジャケットを冷房対策で持参したのだが、
備えつけの毛布があった。
これがかなり厚みのあるもので、むしろ暑すぎるくらいだ。
ダウンの筒はクッション代わりに腰の後ろに置いた。

乗ってすぐに休憩パーキングエリアに到着。
ここ以外、もうどこにも止まらないという。
運転手の交代のために止まることは止まるけれども、
お客さんは降りちゃダメだという。
バスのトイレは中央付近、カーテンで覆われた半地下にある。
サービスのコーヒーや水なんかもその階段脇にあるという。
パーキングエリアを出発すると、もう消灯時間となった。
窓にはカーテンがぴっちり留められており、外はまったく見えない。
そのため車内はほとんど真っ暗闇だ。
私の座席からトイレまでは遠く、
寝ている隣の人をまたがなければ行けない。
かなりのプレッシャーである。
コーヒーなんてヘタに飲んで尿意をもよおしたくはないし、
暗闇の中、コーヒーを上手く席まで運ぶ自信もない。
もし眠れずにスマホでも見たい場合には、毛布を被って光を遮らないとダメだ。
飛行機であれば、たとえみんなが寝ていても、
自分一人、本を読んだり映画を観たりできなくもないし、
トイレだって、8時間ぶっ通しで隣人が寝ているなんてことはないので、
タイミングをうまく見計らえる。
だから、ここではとにかく寝ちまうより他ない。

夢半分、現実半分で私はおかしな気分になっていた。
ここは鶏舎で、私たちは卵を産む鶏だ。
私たちは女工作員だ。
私たちは誘拐された。
私たちは生きたまま間違って霊柩車に乗せられた・・・。


新宿には予定より1時間遅れの7時半過ぎに到着した。
途中、渋滞があり、通常とは違うルートを通ったという。
運転席背後のカーテンが開けられ、フロントガラスからは
眩しい朝日が差し込んでいるものの、
誰もサイドの窓のカーテンを開けない、そのような指示もない。
一番奥にいる私には、まだ現実に戻るための光が足りないが、
とりあえず助かった、という気になった。


降り立った新宿西口の高速バスターミナルは、
平日の金曜ながら、これから旅に出ようとする夏休みの人たちでごった返していた。
私は人波をかき分け、トイレに直行した。




2015年7月23日木曜日

夏の夜の夢

今までの私なら、身を横たえて1分ともたずに眠りに落ちるのに、
暑さのせいなのか、この頃、寝つきが悪い。
ようやく寝られたかと思うと、2時間ばかりで目が覚めて、
何かこう、もんじゃもんじゃしている。

昨夜は30分経っても1時間経っても眠れなかった。
本を読もうかと思ったが、それでますます目が冴えるのも困る。
そこで、どういうわけか、遠い昔の子供時代の夏の思い出を
年齢順に追ってみようと思い立った。

一番古い記憶は、2歳と4カ月。
私は赤いイチゴのアイスを食べながら祖母とどこかを歩いている。
記憶はその一瞬のみで、
もちろん夏だとか2歳だったという自覚はないのだが、
7月に弟が生まれる際、私は祖父母の家にしばらくあずけられたという話を
のちに聞き、あの記憶はその時のものに違いないと思う。
私は昼時分になると、
「おばあちゃん、そろそろお昼にしようか」と
大人の口ぶりで言っていたらしい。
それも自分の記憶ではないし、
直接知っている祖母は、もうこの世にはいない。


幼稚園の時の夏休みで記憶にあるのは、
肝油ドロップを一缶いっぺんに食べてしまったことだ。
普段は幼稚園で1粒しかおやつにもらえなかった肝油、
あのざらついた表面の舌触りと、中の少しかための甘酸っぱいゼリーの味わいたるや、
私には魅惑の食べ物だった。
おそらく、夏休み1カ月分として幼稚園で販売していたんだろう。
食べたいものを食べたいだけ食べるわがままな弟と違い、
長女の私は我慢をする子だった、はず。
なのにあの時はなぜ止まらなくなってしまったのだろうか。
親は怒るというより、子供が死んじゃうんじゃないかと大騒ぎになった。
が、全部おしっこで出るから大丈夫だと言われたらしい。
今でもごくたまにドラッグストアで肝油ドロップを買うのだが、
あの頃の味とはどうも違う気がする。
しかしどう違うか、はうまく説明できない。


小学3年の夏、近所の友達で一人っ子のKちゃん家族の車に私も同乗し、
大磯ロングビーチに行った。
今にして思えば、彼女の家はごく平凡なサラリーマンの家だったが、
いかにも一人っ子らしいKちゃんの自由奔放な振る舞いや、
江ノ島日帰りや伊豆の民宿を選ぶ我が家と違って大磯ロングビーチという
ハイカラトレンディな選択をする彼女の家に対して
私はなぜかお金持ちを見るような視線を送っていたのだった。
帰りの車で彼女は乗り物酔いし、卵サンドイッチを吐いた。
私はもらいゲロしないよう、鼻で息をするのを止め、
遠くを眺めて気をそらすのが精一杯だった。
くねくねの箱根の峠でもあるまいに、お嬢さんはこれだから困るなあ、と思った。
自宅に着くと、我が家は跡形もなくなっていた。
それまで平家だったのだが、2階建てに建て直すことになり、
この日は解体の日だったのだ。
家を建てている夏の間、近所のアパートで仮暮らしをした。
そこからわずか数メートルのところに私営のプールがあり、
私はシーズン券を首からぶら下げ、水着のままタオルをはおって毎日通った。
ある時、Kちゃんも一緒に行くことになり、
彼女とうちのアパートで着替えていると、私の母が部屋に入ってきた。
「いやーん、おばちゃんったらぁ」と
彼女はまだ板状の胸元を隠して甘い口ぶりで言った。
そのませた態度が私には死ぬほど恥ずかしかった。
私は彼女のことが実はそんなに好きではなかったのだろう。
なのになぜ、よく遊んでいたんだろうか。
彼女は今頃どうしているだろう、あのままいけばエロい熟女路線のはず。


小学5年の夏、生まれて初めて、子供たちだけで映画館に行った。
女子2人、男子2人。
映画は「スーパーマン」だった。
いつも一緒に遊んでいる男子ではないのに、どうして誘われたのだろうか。
私はフリルがついた水色のワンピースを着ていた。
胸元にはひまわりの刺繍があったと思う。
紙コップのジュースを男子はごちそうしてくれた。
別に好きでもない男子だったけれど、だからこそ、
私はちょっぴり大人になったような気がした。


相変わらず、私営プールに通っていた。
帰りに食べる、チョコクランチバーアイスがたまらなく好きだった。
監視員をしていた大学生のお兄さんに憧れていた。
水面からざーっと上がって、お兄さんに近づいていく私は、
イメージ的には浅野ゆう子かアグネス・ラムで、
南佳孝のモンロー・ウォークが鳴り響いていた。
私がにっこり微笑むと、お兄さんも微笑み返してこう言った。
「鼻クソついているよ」
水から出た勢いで鼻水が垂れていた。
プールに飛び込んで死んでしまいたいと思った。


結局、子供時代の夏の思い出をいくらなぞらえても、私はまだ眠れなかった。
家を建て直す前のエアコンがなかった時代、暑くて寝苦しい夜には、
タオルケットをマントのようにして、
月光で壁に映る自分のシルエットをモンスターに見立てて遊んだ。
あるいは、涼しい場所を求めて、廊下で寝たりしていたこともある。
40年くらい前の話だ。


どうか今夜は眠れますように。



2015年7月10日金曜日

シェフ107号発売!!





いけね、いつもの宣伝を忘れとった。
『シェフ107号』夏号、すでに販売中です。

巻頭特集は「調理技術競演 火入れの裏技公開」です。
アンドセジュール、アムール、ル・ジャルダン・デ・サヴールの各シェフに
テクニックを公開いただきました。
グランシェフはホテルメトロポリタンエドモント(中村氏)とアラジン(川崎氏)。
夏のスペシャリテはラ・ベカス、Edition Koji Shimomura、エサンス、
オーグードゥジュール ヌーヴェルエール、レストラン ヒロミチを掲載。

「新世代のシェフによる明日のスペシャリテ」は
ラトリエ ドゥ ジョエル・ロブション(関谷氏)、
「プロのためのマルシェ」のテーマはトマトで、
料理はボウ・デパール 青山倶楽部(蜂須賀氏)に依頼。

他に、アニス、コントワール ミサゴ、resonance、グリ、リエゾン、
ビストロ ヌー、ラ トゥール、コポン ノープ、リストランテ ナカモト、
Salt by Luke Mangan、パレスホテル東京、シェ オリビエ、
銀座オザミデヴァン本店などの皆様にお世話になりました。

よろしくお願いいたします。





2015年7月1日水曜日

中国・煙台の旅4終(グルマン世界料理本大賞)


中国・煙台の旅1

http://yumikowatanabe.blogspot.jp/2015/06/1.html
中国・煙台の旅2
http://yumikowatanabe.blogspot.jp/2015/06/2.html
中国・煙台の旅3

http://yumikowatanabe.blogspot.jp/2015/06/3.html



4日目(6月11日)


帰国日。一人で朝食。

昨夜、部屋に置かれた朝食券は2枚だった。

ドリンクを取りにちょっと席をはずしただけで、

ここのサービススタッフはそそくさと皿を下げてしまう。
「まだ食ってる途中でしょうが!!」と、田中邦衛やったろか。


昨日のワイナリーで出会ったフランス人シェフたちもこのホテルだったようで、
ダイニングで再び会ったので、軽く挨拶を交わす。
すると、もっさりとあごひげをたくわえ、ひょろりとした外国人が
私のテーブルにやって来て、
「君はスペイン語、話せるのか?」「ちょっといい?」と、前の椅子に腰掛けた。

彼の存在は初日から気づいていた。
どこの国の人なのかはわからないが、
仙人のような風貌で目立っていた。
何かいつも一人で鼻歌を口ずさみ、体を何となくクネクネさせていた。


彼はバルセロナの人だという。
“ SEITAI ” (整体) の伝道者らしい。
整体のパイオニア、野口晴哉の教えを学び、広めている。
KATSUGEN” (活元)について、彼は語り出した。
無意識の体の動きやゆがみ、それを感じ取り、治癒力を高める、といった話を。
なるほど、だからいつも体をクネクネさせていたのか。
(そういえば私も以前に『整体入門』を読んだ気がするが、
本はどこへやってしまったかな・・・) 
私が関心を示していたためか、
彼は私にSEITAIの本をプレゼントしてくれるという。
緑色の万年筆で、表紙の裏にメッセージを書いている。

lleva éste libro, como un licor destilado por el tiempo, 
vuelve al árbol de donde nació.

この本を日本へ持っていって。
時間により蒸留された酒のように、
(この本は)生まれた木へと戻る。








しかし、なぜ整体の人がグルマンに?
「妻に同行してきたんだよ」
彼の目線の先を見ると、ぽっちゃりとした女性が、仲間2人と食事をしていた。

朝食の後、彼女とも話をした。
彼女の作品は、手書きのレシピ冊子。
製本も自分で行い、50部程度ずつ作って手売りしているという。
ブックデザイン賞でグランプリを取ったようだ。
彼からは本をもらっていることだし、ならばこちらはシリーズの1冊を買うことにする。





彼らとの出会いのおかげで、
昨日からの後悔の念が消えた。
そうなんだよな。
いつだって旅は、自分の人生に影響を与える人との出会いが
必ずあるのだ。




チェックアウトする前に、ホテルの近所を少し散策した。
ほとんど何もない場所だが、スーパーを発見。
お土産になるようなものはないだろうか。

さすが食用油のコーナーのボリュームたるや。 
うやうやしくプラスチックケース入り、牛乳石けん良い石けん。
突っ込みどころ満載。
「安全におじけづく刀を剃ります」
逆立ちしても書けないコピー、
元の言葉は何なのか想像するも難しすぎておじけづく。
1本980円、高級ですね。

店内をくまなく見て回ったが、どうしてもお土産が見つからないので

腹いせに?くだらない写真ばかり無断で撮って出てきた。
女性店員たちは集まっておしゃべり、私のことなど気にしていない。





さすが、二輪の車道が広い。
みんな布を前につけている。日中はかなり暑いので、朝晩の冷え対策か?
車の激しい往来の真ん中、人が横断歩道に対し直角に歩いている。
我はゆく〜昴な生きざま。



ホテルに戻り、チェックアウト。
タクシーを頼むと15分待ってという。
そうそう、初日に空港で迎えてくれた女の子は、
このホテルの土産物店(買いたくなるようなものはない)の店員だった。
私がロビーのソファーに座ろうとすると、

彼女はだらりと肘掛にもたれかかってスマホをいじっていた(働かないのかよ?) 。
「何しているの?」と聞くので、
「タクシーを待っている」と答えると、怪訝そうな顔をした。
そうか、そもそも今回はグルマンの送迎つきという話だったのだ。
帰りだって本当は送ってくれるはずなのだ。
「もしあなたが空港に連れて行ってくれるならうれしいけど」
すると、彼女はどこかへ電話をかけ、20分待てるかという。
フライトの時間まで余裕があり、どうせ15分待つところなのだし、
こちらは問題なしだ。

その後、彼女は消え、彼女から頼まれたという
でかい男がやってきて、私はその男の車に乗り込むことに。
見た感じタクシーではないようだが、空港に着くと、
ちゃーんと154元(3080円)の領収書がどこからともなく(機械音なく)出てきよったワイ。
55.5kmとかって細かいことも書かれているから、やっぱり個人タクシーなのだろう。
4元はまけてくれたけどさ、
先に帰国したシェフからは110元だったとすでに聞いていたので、800円ソンしたー。
タクシー運転手の言う「No English」ってある意味、いい手だよなあ、
交渉のしようがないのだもの。
まあ、タクシー会社のタクシーの多くは窓全開でエアコンなし、
一方この個人タクシーは完備されているから、その差か。
彼女の怪訝そうな顔や役回りはいったい何だったのか、は謎。


帰りの飛行機では、韓国人CAから何か韓国語で質問され、
「ん?」という顔を私がしたら、中国語でくり返し質問された。
わずか3泊の旅にして、すでに私はまるで日本人に見えない風貌になっているのかしら
と思ったが、煙台から仁川への便に乗る日本人はさほど多くないのだろう。
事実、仁川から成田の便では、機内食サービスの際、
私を含め日本人と思われる乗客に対しては「コチュジャンイリマスカ?」と
いちいち聞いていた。
ちなみに、そのCAはコーヒーポットを片手に、
「コイデゴジャリマス」を連呼していた。

私のとなりの席はポロシャツにチノパンのラフな格好をした中年男性で中国人風。
その人は席に着くなりテーブルにノートを広げ、ものすごい複雑な数式を解いていた。
時折、参考文献を取り出して見ては、フムフムとうなずいている。
マクローリン、ラグランジュ・・・
数式の合間に見られる文字は、さっぱりわからないが日本語である。
そして食事時になると、コチュジャンを受け取り、
肉にたっぷりかけてグチャグチャにご飯を混ぜ込んでいた。
まあ、アジア人であることは確かではある。









2015年6月27日土曜日

中国・煙台の旅3(グルマン世界料理本大賞)


中国・煙台の旅1

http://yumikowatanabe.blogspot.jp/2015/06/1.html

中国・煙台の旅2

http://yumikowatanabe.blogspot.jp/2015/06/2.html


3日目(6月10日)


相変わらずのがっつり中華朝食。
一番美味しいと思ったのは薏米茶
温かい豆乳で抽出したハト麦茶でした。





ちなみに、このホテルでは、夜のベッメイク時に
翌日限定の朝食券がベッドサイドテーブルに置かれているシステム。
前夜、お菓子2個と共になぜだか朝食券が3枚あった。
どういうこった? 
3回食べてもいいアルヨ、ということなのだろうか?


伊藤シェフはこの日の午後便で帰国する。
私は一人残ってもう1泊する。
(グルマンのプログラムはまだ続きがあり、食品や飲料に関するカンファレンスだの
プレゼンだのがあるらしいので、それを見ていこうと思い) 

シェフがチェックアウトする昼までは時間がある。
(ここのホテルのチェックアウト規定は14時ですって。ずいぶんゆっくりでいいアルヨ)

他の日本人の方から、「海に近い旧市街が雰囲気あってよかった」
という情報を得ていたので、シェフがフロントに尋ねてみる。
相変わらずかみ合っていない感じ。
「旧市街」がすでに通じていない。
が、ともかく、この辺りがいい感じだと地図を指差しているので、
半信半疑ながらそこへ行ってみることに。 
自転車で行ける距離だそうで、無料で貸し出すとのこと。
「2人乗り用にしますか?」と聞かれ、
即座に「ノーッ!!」と強く否定するシェフ。
もちろん私もそんな、諏訪湖の周辺でもまわるような、
タイムボカンシリーズのような(あれは3人乗りか)
そんなふざけた自転車に乗るつもりはないけれども、
あからさまに否定されると、 
なぜかしら、フラれた乙女心になり、
ちょっぴり寂しい〜♪(笑って、キャンディ!)。





かんかん照りの下、示された方角へ行けども行けども、
開発中の整備されたビーチが続くだけで、旧市街など出てきやしない。
旧どころか新も新。
やはり意味は通じていなかった。
30分くらい進んだところで、
「帰りますか」「はい」
思えば遠くに来たもんだ。
うぅ・・・足が、膝が・・・求むコンドロイチン&グルコサミン。

中国で私たちはいったい何をやっているんだろうか?



ホテルに戻り、シェフと別れた後、
私はグルマンの会場に行ってみた。
が、プログラムに書かれているようなカンファレンスだの何だのは
ちっとも行われていない。
欧米人参加者たちが屋外のバーでワインをダラダラ飲んで
ただしゃべっているだけだ。

私は後悔し始めていた。
私もシェフと同様、2泊で帰るスケジュールにすべきだった・・・。

閑散としたグルマン授賞式の会場。

ソフト、ラウンド、スクエア、ヘアカットバリエ。

俺たちはアンチ角刈り派。

日本人の参加者たちの多くも今日の便で帰ったらしい。
一部、残っている人に携帯で連絡を取ってみる。
「これからワイナリーに行く」とのことなので、
そこで落ち会うことにした。







「張裕ワイナリー」(CHANGYU)。
中国でもかなりトップクラスのワイナリーらしい。

http://www.cnjpgroup.com/eastone/

土産コーナーやギャラリーなど館内を一人でタラタラ見ていたが、
いつまでたっても落ち会うはずの人たちがやって来ない。
しびれを切らして電話をしてみると、
「ちょっと予定が変わって行けなくなった。ディナーは5時にグルマン会場から
 バスが出てレストランへ行くそうなので、そちらで会いましょう」
どうもグルマンのプログラムは曖昧模糊としており、
どこからどういう情報を得られるのかさっぱりわからない。
この時点で4時45分。
バス出発まで、15分しかないではないか。

暇そうにスマホをいじっている受付嬢にタクシーをお願いすると、
タクシーは無理だと言う。
なんでなのかはわからない。
英語がちっとも通じない。
丁寧に説明すればわかるとでも思っているのか、
中国語で必死に何かを説明している。
外の道路にあるバス停を指差し、バスに乗れ、と言ってるらしい。
アール・イーとくり返すので「21番」らしい。
私がどこへ行きたいか伝えていないのになぜ21番限定なのか?

困ったなあ。路線バスを待ったりしている時間はないのだよ。
21番が本当に正しいのかもわからないし。
グルマン会場からここまではワンメーター程度だったので、
走って帰ればギリギリ間に合うだろうか。
道順は割に単純だった気がするが、
途中2回くらい曲がったので自信はない。
グルマンのバスに間に合わなかったら、夕飯にありつけん。
ああ、やっぱり今日帰国にすればよかった、後悔がさらに深まる。
何の因果で、この見知らぬ土地で、
私は朝から自転車をこいだり、今は走れメロスになろうとしているのか。
誰か〜誰か〜助けてくれぇぇい。

と、ワイナリーの外に、欧米人3人がいるのを発見。
彼らはグルマン会場で見かけた人たちだ。
勇気を出して、手前にいた一人に話しかけてみる。
彼はフランス人シェフで、スペイン語ができるという。
「これから歩いて会場まで帰る。バスの出発は5時40分だから大丈夫」
時間の情報が錯綜しているのか、あるいは変更になったのか。
わからないが、ともかく、一緒に帰っていいかと聞くと「もちろん」とのこと。
助かった〜。
彼はテレビの料理番組部門で受賞した人らしく、
他2人は制作仲間でムービーカメラを手にしている。
今回のグルマンの様子も録っているようだ。


どこへ連れて行かれるのかわからないままバスに乗る。
途中、渋滞にはまる。
欧米人たちは、なぜかドレミの歌を合唱している。
過去にもこれと似たシチュエーション(何らかの集まりで欧米人たちとバス移動)
を何度か経験したことがあるが、
いつでも彼らは賑やかで、落ち着きのない小学生の遠足状態だ。

1時間程かかってレストランに到着。
食事はコース仕立てで、これまでで一番まともではあったが、
それでもやっぱり、グルマンワタナベの胃袋と心は満たされない。


なまこの姿煮。




つぶ貝の炒め物。うま味調味料がしつこい。


羊肉の肉まん。

やはりここでもタレなしの餃子。







加えて、鼓膜が破れるかと思うほどのすさまじい大音量で中国人が次々と歌を披露。
実に気持ち良さそうに歌っているのだが、お世辞にも上手いとはいえない。
途中からは欧米人がマイクを奪い、カラオケ合戦さながらに。
ワイナリーから一緒に歩いて帰ってきた彼も、カメラを回しながらはしゃいでいる。
私というか我々日本人はどうも乗れない。
何が楽しいのかわからない。
彼らがノー天気なのか、我々がつまらん人間なのか。
自分もマイクを取って朗々と歌ってみたら、どうなるのかな。
歌は何がいいか、「北国の春」あたりかな。
何で北国の春なんだ。

こうして、煙台の夜はふけてゆく。
(つづく)