2015年9月12日土曜日

父の手

私は4年半前にフリーランスになるまで、
スマホはおろかケータイも持ったことが一度もなかった。
それまでは必要性を感じなかったのと、
電車内で全員がケータイを見つめる光景や、
私と一緒にいてもケータイに気がとらわれている様子が嫌だったからだが、
両親はいまだに持っていない。
これはひねくれ者の血筋か、家訓か。


昨夏に1カ月入院して以来、
父は日に日に細く小さくなっていき、足はおぼつかなくなり、
好きだった読書や映画鑑賞もまったく興味を示さず、
ただ病院に通い、大量の薬を飲み、
口を開けば体に関する愚痴を語るだけの日々を過ごしている。
夜眠れないと、精神科(最近はメンタル科と言うらしい) で安定剤や睡眠導入剤まで
処方してもらっている。
が、それでたとえ夜眠れても、すがすがしい朝ではなく、
翌日昼間も頭がぼんやりしているという。
それだけの薬を飲んでいたら、当然のことながら腸内環境は悪くなる。
今度は腸の検査にも行ったらしい。
ピンピンコロリしたいが、持病は治る見込みなく、もはやピンピンは望めず、
さりとて、コロリにもなかなかならず、
生きていることに何の希望も見出せないようだ。
マンションの屋上にも行ってみたが
なかなか飛び降りる勇気はないという。

眠れなかったら開き直って布団から出てテレビでも見ればいい、
次の日の昼間、眠くなった時に寝ればいい、
何なら、そんなに死にたいなら、三日三晩不眠に挑戦してみたらいい、
(できずにどこかで必ず寝るはずだから)
と私は言うのだが、
「つい我慢できず、薬くれーって、ヤク中毒みたいなもんだな」
と、なかなか聞く耳を持たない。
あくまでコロリと死にたいのであり、
ジワジワとした苦痛はつらいのだろう。


一方、父より9歳下の母はスポーツクラブに通うくらいの元気がまだあるが、
耳が遠い。一度、病院に行き、いろいろな補聴器を試したのだが、
それがどれも合わなかったことに加え、プライドがあるのか、
補聴器の話をすると非常に嫌がる。
しかし、こちらも日ごと悪化しているようで、
一緒に暮らしている父には、気が気でないらしい。
さらには「お母さんはどうも認知症初期のようだ」と父が言い出した。
時折、母が出かけている間に私にこっそり電話をかけてきて、
愚痴をこぼすようになった。

外出中の母に自宅の父が連絡を取りたい場合、
あるいは二人が病院などに出ている時に(もはや父は一人で外にはほとんど行けない)
何か緊急事態が起きたらすぐに私に連絡できるように、
携帯電話が必要だ、と、
ひねくれ家系の長がとうとう折れた。

私は自分と同じ会社のもので、シニア向けの携帯を吟味し、それを1台購入した。
あくまでケータイだが見た目はスマホ仕様で、
単純化させた見やすい画面、使用料も安い。
緊急ブザーを鳴らせることができ、また、
それと同時に私のスマホにつながるシステム。
GPSで位置を私が把握でき、
24時間使っていないとそれも私に連絡が届く。

しかし、そのケータイはあまり売れていないのだろうか、
取り扱っている店が少なく、扱っている店を訪れても、
料金プランを店員は把握していなかった。
今どきのシニアは、とうにケータイやスマホを使いこなし、
こんな「年寄り騙し」なケータイなど使いたくないのかもしれない。


両親を前に、ひと通り、やり方を説明する。
扱いに慣れるにはしばらく時間がかかるだろうが、
それよりも意外な点で困ったのは、
両親(特に父)が触れても、タッチパネルの反応が鈍いということだ。
カサカサパキッと折れる枝のような父の指とケータイの組み合わせは
あまりに異様でせつなかった。
「眠れない夜は、ヒマつぶしに私にメールしてみてよ」
と伝え、両親の家を出る。


あれは私が幼稚園生の時。
運動会でマーチングバンドを組んだ際、
女の子の花形であるトワリングバトンを私も希望したが、
その地位につけるのはすらりとしたキレイどころであり狭き門、
体の小さい私にはカスタネットが与えられた。
シロフォンでもドラムでもなく、その他大勢、いわば二等兵。
悔しかった。バトンが欲しかった。
それを父にねだったのかは記憶にないが、父はバトンを買ってくれた。
腕をまっすぐにのばし、手首をクルクルと回す。
水平に回す方法もあれば、縦に左右に回す方法もある。
バトンは金属製で重い。先端にはゴムがついているものの、
振り回して顔に当たればそれなりに危険だ。
父はまず、ホコリはたきを使って手本をやってみせた。
何か他にふさわしいものはなかったんだろうかな。
でも、父はあくまで真剣に教えてくれたのだった。
父の手は、しなやかだった。


どうせなら、我が家ももう少し早くケータイを持つべきだったかな。
そうしていたら、少しは楽しいやりとりができたのかな。
人生最初にして最後に両親が持ったケータイから私にかかってくることは、
悪い知らせ以外、望めそうにないのだ。



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