2013年7月29日月曜日

なれのはて

懐メロのテレビ番組などで、往年のスターが、過去の代表曲を歌う。
おそらくは、久しぶりに歌うというよりも、
地方公演などでくり返しその曲を歌い続けてきたに違いない。
いつもそれを見て感じることがある。
(あ、いや、別に懐メロ番組をいつも見ているわけじゃないですよ、
たまたま目にした時にはいつもという意味)

原曲から相当にアレンジして歌う人が多い、ということだ。
たいていが、タメてねっちりとした歌い方をする。
メロディーからあえて脱線して情感たっぷりに歌い、
そのため最後の小節はシワ寄せられて、早口のささやきみたいになっている。

どうしてあのような妙な節回しの歌い方をするのか。
何千回と歌ううちに、少しずつ、ある種のズレが生じていったのか。
おんなじ歌い方では飽き足らず、創意工夫しているのか。
ベテランゆえ、これだけ余裕があり表現力の幅が広がっている、
というパフォーマンスあるいは自己陶酔か。
声が出なくなり、雰囲気でカバーしているような気もする。
その多くが、良い進化と思えず、イヤラしくなっている気がする。
昔のほうが良かったのに・・・と残念な気持ちになるのだ。

先日、久しぶりに三田のレストラン「コート・ドール」の
斉須政雄シェフのところへインタビューに行ってきた。
斉須シェフは近年、ご本人の意志により、ほとんど雑誌などに登場しない。
うちも、たまに取材依頼をトライしてきたが、
丁重ではありつつも断られてきた。
が、次号の『シェフ』は100号ということで、
インタビューだけでもお願いできないか、ダメもとで聞いてみたら、
快諾してくださった。

斉須シェフは昔に比べ、かなり痩身になっていた。
「久しぶりだねえ、ワタナベさん」と、
シェフは私のことをじぃーっと見た。
じっと見て・・・特にコメントはなかった。
たいていの人は「昔と全然変わらないね」とか「若いね」などと
お世辞を言ってくれるものである。
斉須シェフは決してお世辞を言わない。
かといってズケズケと不躾なことを言ったりもしない。
つまり、だから、私は、そういうことであるのだな、と悟る。

コート・ドールの厨房が飛び抜けてキレイであるのは
業界で有名な話である。
私も20年くらい前、初めてここの厨房を見た時に驚いた。
当時はまだ、床に水を流して掃除するような厨房が多かったなか、
コート・ドールの厨房はドライタイプで、
寝っ転がれると思うくらい、
ゴミ一つなく、油のベトつきなどもなかった。
ステンレスの壁面やフードは1日数回の掃除でピカピカに磨き上げられていた。
今回訪れた際、それがきっと変わっていないだろうと予測していたが、
やはり本当にそうだった。
普通、ステンレスは年月にともないキズがついていくものではないのか?
なぜ、新品のようになめらかに光っているのだろう。
「ちゃんと考えてキズつかないもので磨くことです」とシェフ。
確かにそうだ。当然なのだが、しかしなかなか実行できないものだ。

コート・ドールには、長年提供し続けているスペシャリテが数多くある。
その話は斉須シェフの著書に詳しく書かれているし、
また私のインタビューは『シェフ100号』で掲載する。
そちらを見ていただきたいのでここでは話さないけれど、
彼の話を聞いていると、同じ料理を同じようにずっと出し続けることの
難しさと素晴らしさを痛感せずにはいられない。
今日もまた、きちんと美味しく作れるか、
何千回でもトライしたいし飽きないのだと言う。
アスリートにも似た、頭脳で描いた感覚と身体機能を一致させて生み出すことを
この人は追求し続けている。
また、料理に限らず、スタッフとの関係性も「馴れ合いになってはいけない」と言う。
馴れ合いのなかでは、決して美味しい料理は生まれないのだと。


慣れの果て、馴れの果て・・・の、成れの果て。
何の分野においても、新鮮な心持ちを忘れてはいけないですね。
ブレない強さを持つ、難しいですけれどね。


2013年7月21日日曜日

キャラじゃないでしょう

先日、あるオフィスでミーティングがあった。
私は長テーブルの隅に座っていた。
ふと、眼の端に何か動くものが見えた。
黒いボールのようなものがさーっと転がっていく感じ。
ネズミだった。
もう1回言うけど、場所はオフィスだ。
私は叫びそうになった。
けれども、ちょうどその時はエライ人が
重要な話をしているところだったので、グッと堪えた。
ハッとしてグッである。
とはいえ、何かただならぬ雰囲気を醸し出してしまったようで、
みなが「ん?」という顔をするので、
「ネズミがいま、通り過ぎて行きました」と報告したら、
やはり大騒ぎになり、
ある者は段ボール紙、ある者は虫退治のスプレーなどと
わけのわからないものを手にし、
ネズミが隠れているはずのキャビネット周囲を恐る恐る取り囲む。
エライ人は別の腰高キャビネットの裏側にまわり陣地確保したうえで、
そっちだ、いやこっちでは、など指令だけ飛ばしている。

そこへ再び、姿をあらわしたネズミに
思わず私は「きゃあ」と声をあげてしまった。
すると年下の男性が「そういうキャラじゃないでしょう」と言った。

こういう害虫退治の場面にやたら強い女子が一人はいるものだ。
私ではない。段ボール紙を持った彼女だ。
それでネズミを追いたてながら、見事にオフィスの外に出した。
ネズミは時々、段ボール紙に乗っかり、
ともすれば彼女の腕を伝い歩きしそうな勢いだった。
「ウワッ〜ちょっとあんた〜」などと叫びつつも手は緩めない彼女。
あとで聞くと、もしネズミにバイ菌がなければ触れる、と言う。
ウシガエルなんかも普通に持てるし、ヘビだって噛まれないならばOKと。
かなりの女ムツゴロウである。

でもおそらく、世間一般的に見たら、
彼女がもし「きゃあ」と言っても何とも思われないに違いない。
言いそうな風貌の人だからだ。
一方、キャラじゃないと言われた私は、
しかし子ども時代でも小さなアマガエルが限界であり、
ウシガエルなぞ持たされたら気絶もんだ。
幼い頃、動物園で父親に肩車され、
キリンにエサをやろうとして長い舌を見て大泣きした。
ゴキブリだって何だって虫はイヤよ、特に嫌いなのはムカデだわ。
想像するだけでも恐ろしくってよ。
ああ、授業のカエルの解剖だって結局できなかったのよ。
と、女言葉で書いてみるも、
「キャラじゃないでしょう」の言葉が追いかけてくる。
こだまでしょうか?

昔、取材でジビエ料理のプロセスシーンを撮影したことがある。
真っ白の毛で覆われたエゾユキウサギ。
今となっては大変希少な野ウサギだ。
耳を持ち上げてうれしそうに笑うシェフ。
毛皮はズルリとむかれ、鮮やかな手つきでさばかれていく。
「きゃあ」な女子だとひょっとして吐き気をもよおすのではないだろうか。
私は、まるきり平気というわけでは決してなく、
最初はかなりギョッとしたのだけれど、
これは仕事であり、ウサギは食べものである。
きゃあきゃあ言うのはただ迷惑なだけ、と思い、耐えた。

スペインへ取材に行った時、
肉の解体工場を見学し、次に仔豚の農場を訪れ、
その足でレストランへ行き、部位別のテイスティングという日があった。
解体工場はとても近代的で清潔だった
(と殺場ではないので、すでに血は抜かれて開かれた状態)
それでもやはり独特の匂いが漂っており、若干ウッときたのだが、
同行している現地フードコーディネーター(同い年の欧米人女性で今では友人)が
長い髪を慣れた手つきでさっと束ね、堂々とした態度であるのを見て、
なんだか私も負けてられんと、平気を装った。
カワイイ仔豚を見た直後のテイスティングも、一応普通にこなした。

本来の私は、ひ弱まではいかないが、
やや「きゃあ」なキャラなのだ。
しかしそうやって仕事で鍛えられ揉まれるうちに、
そこそこ強いくらいにまで引き上げられた。
ただし食べものと認識しているもの限定であり、
虫やは虫類、両生類などは別だ。
最近、FAOの報告により昆虫食が注目されており、
虫だって立派な食べものだと怒られそうだけれども、
今のところそっち方面の仕事はなく、
どうにもこうにも未だ「きゃあ」なままである。

ほ乳類のネズミは本当のところどうなのだろう。
ペルーだと、テンジクネズミのクイはごちそうだそうだし。
現地に行きたいと思っている私は、いずれ食べる時が来るだろう。
ネズミ騒動の最中、私はふと、
20年以上前に読んだ『アルジャーノンに花束を』を思い出して
あの小説おもしろかったなあ、なんてぼんやりした瞬間があった。

今、もう一つ思い出した。
カエルの解剖で、私より先に「きゃあ」となって
真っ青な顔で貧血を起こした美人のクラスメートがいた。
すると、生物の男性教師が彼女を抱きかかえるようにして保健室へ誘導した。
カエルもイヤだが、あの先生に抱きかかえられるのはもっとイヤだと思い、
私は何となく解剖しているフリをしてやり過ごしたのだった。

ふむ。そうすると私は、仕事がどうのとか関係なく
もともと「きゃあ」のキャラじゃなかったのか。
結構冷静なもう一人の私がいつもいるではないか。
でも、「キャラじゃないでしょう」と言われた時、
なんでちょっと不服な気持ちになったのだろう。
「そんなカワイイ(女らしい)キャラじゃないでしょう」
と言われている感じだからか。
「きゃあ」なキャラだと思われたいのだろうか。
ウサギも解体工場もカエル解剖も、本当は「きゃあ」なのに
そうしたくないほうが勝って自主的に口をおさえているのだから、
キャラだと思われたいわけでもないだろう。
じゃ、自然に出た「きゃあ」を小芝居だと思われたのが悔しいからか。


そんなふうにどうでもいいことをあれこれ考えるのは
乙女だからでしょうか。ただの理屈屋でしょうか。




2013年7月14日日曜日

ブータンが教えてくれたこと

まいど宣伝でございます。

この春よりアノニマ・スタジオでも仕事をしておりまして、
私が手掛ける最初の一冊となったのが、こちら、
かわしまよう子さん著『ブータンが教えてくれたこと』です。




たまたま前任の編集者が退職するため引き継いだので、
料理本畑をずっと歩いてきた私にとっては新ジャンルの挑戦でした。

かわしまさんは、雑草にフォーカスした花に関わる活動を
ライフワークとする方で(アスファルトに咲く雑草の写真を撮ったり、
廃品に草花を飾ったり、雑草料理の講習等)、
エコライフの提唱なども行っています。

そんなかわしまさんが、
東日本大震災による原発事故のショック等から、 
仕事を含め今後の生きかたに思い悩み、ブータンへ。
道路と電気が通る寸前にある小さな村チモンで、
自然と共存する村びとたちと交流するなか、
さまざまなことを考え、
発見していく心の変化を細やかに綴ったのが、この本です。
旅の途中でなぜか2回壊れ、かつ復活した一眼レフカメラでとらえた、
素朴なおもてなし料理や子どもたちの表情などの
写真も多く掲載しています。

一昨日くらいから書店に出ていると思います。
よろしくお願いしま〜す。



2013年7月7日日曜日

今度はMacAirだよ

先日、冷蔵庫を買い替え、さて次にそろそろ壊れそうなものは・・・
おそらく電子レンジかなと思っていたら。
ノートPC(MacBook)が壊れた。
オーパッキャマラドなクラリネットのように、
いくつかのキーが反応しなくなり、
リターンキーもゆうことをきかない。
日々酷使しているので、仕方ないのかもしれないが、
確か4年くらいしか使っていないぞ。そんなもんなの?
(一つ前のは5年くらいだったか・・・)
この週末、やらなきゃいけない仕事がいっぱいあるのに、
これはマイッタ。

まずはアップルストアに相談、かもしれないが、
予約しても待たされるし、
修理に出すとなっても時間がかかるだろうし、
おそらく買い替えを勧められるだろう。

シャーペンは機械だと思っており、鉛筆派のアナログな私であるのに、
仕事上、パソコンだけはひょっとして冷蔵庫よりも必需品だ。
これがなかったら、なーんにもできない。
ふぅ〜、実に悔しい。どんだけ機械に操られているのだ、My Life。

仕方なく、家電量販店に行き、ものの3分で購入。
案の定、店のお兄さんは
「ああ、それはキビシイですね、修理出しても5万はかかりますからねえ」
とお気の毒様の顔をする。
私がこれまで使っていた白いMacBookはもう売っていない。
ペラペラでメタリックであんまり好きじゃないなあと
以前は思っていたMacBookAirがスタンダードになっている。
CDが入れられないから外付けも買わされる。
ついでにオフィス2011も勧められる、
ウインドウズとの互換性がよりよくなってどうのこうのと言うが、
いやいやそれは今までのものを使い続けるぞ。
ネット加入も勧めてきたがそれも断ると、
これ以上の売り上げはのぞめないと知ったお兄さん、
私が購入する商品の箱を私に見せつつも、もう心ここにあらず、
すぐそばでサンプルを見ている客のほうに気がとらわれている。
あーたね、何なの、そういう対応失礼じゃないかしら? 
と、私は心の中でデヴィ夫人のモノマネをした(かなり似ていると思う)。

冷蔵庫に続き、再びの10万超の出費。
しかもつい先日、市民税を年間一括で払ったばかり。
電子レンジくんよ、がんばってよ、もうしばらくは。
あとは何だ、高いものと言ったら、エアコンか。
エアコンはあまり好きではないけれど、それでも
すでに梅雨明けしていきなりの猛暑スタート、
冷房なしで今年の夏を乗り切る自信はないな。
頼むから壊れないでね。

お兄さんが言う「前のPCからのデータ移行も簡単ですよ〜」が
機械キライの私に当てはまらないことは、やる前からわかっていた。
アップルセンターに2回も電話してアドバイスを請う。
まあこれは、老後になったら誰でもそうなるだろう、
なことのシュミレーションだと思うことにしよう。
何とか移行中にまでたどり着き、どれくらい時間がかかるか聞くと、
オペレーターのお姉さんは
「私の個人的経験ですと、音楽とか結構入れていたので、
 4時間かかりましたねえ・・」
と、申し訳なさそうに言う。
ああ、やはりそんなにかかるのか。
結構かかるとは噂に聞いていたが、
4時間では半日仕事ができないではないか。

電話を切り、私のPCの画面を見る。
そこには「残り8時間30分」と出ていた・・・

というわけで、ようやく夜になって終了、丸1日仕事できず。
今こうして試し打ちをしているところです。
同じマックとはいえ、いろいろな勝手が違うので
慣れるのにしばらく時間がかかりそうだ。

駆け出しだった頃、ワープロに移行する時代だったが、
まだ原稿用紙に書くのも普通だった。
人とのやりとりは電話かFAX、あるいは直接面会だった。
電話で10分、FAXで何十円、電車で往復1時間が、
今ではメール1本で、一瞬で、何本送ろうと料金は変わらず、
やりとりできるようになった。
けれど、メールを打ったりチェックしたりって実は案外と時間がかかっており、
タダのような気でいるけれど月額で通信料を払っているのであり、
数年に1回高い買い物をしなければならず、
突然壊れると仕事に支障をきたす。
更にもしもデータが失われていたらと想像するだけで恐ろしい。
顔を見て話せば通じ合えるものが、メールの表現一つで誤解を生じる。
ワードでの文章作成は、差し替えも削除も手軽で繰り返せる分、
言葉が記号化され、行間に込められた感情が薄れた。

便利って、コワイですね。






2013年7月1日月曜日

メガネデビュー





友達や同僚の約8割、みんなコンタクトをしている。
友達何人中?ということは
別テーマなのでここでは触れないが。

視力が悪い人が圧倒的に多い
中で、
裸眼で今日まで通してきたのは、おそらく
コンフォータブル&リーズナブルな人生であり、
親に感謝せねばならないだろう。
しかし、この頃、例えば名刺に書かれた小さな電話番号がよく見えなくなった。
老眼か?それもあるかもしれないが、

遠く離したら見えるという感じでもないのだ。
もともと若干乱視ではあったので、それがひどくなっている気がする。

ひとえにパソコンの見過ぎだと思う。

というわけで、とうとうメガネデビューすることになった。

目の検査というと、ランドルト環あるいは
文字の大小のイメージだ。
遠くにある透過光のボードを、スプーンみたいなもので片目隠して
右だの上だの(幼い頃は口で言うのではなく指で示し、
右斜め下の時に手首が妙にねじ曲がったり)。
昔は視力が良かったので、より良い数字を出そうと、
ギリギリ見えないものも半分勘で答えたりして。
しかし、スプーンをついつい強く目に当ててしまい、
そのせいで見えづらくなってしまったり。
アホですね。

そんな前時代の方法ではないのはわかっていたけれど、
ランドルト環よりも、点々とか赤と緑に書かれた図形だとか、
縦と横の網目などの検査をしつこくやるのですねえ。
さっきのと今のではどっちが見えやすいか?
どっちの線が濃く見えるか?と聞かれるが、
「右」とか「あ」とかはっきり答えを言う検査と違い感覚的なものなので、
見ているうちになんだかわからなくなってきて、
もう一回お願いしますと繰り返し、
しまいには涙目になってきて、
こんなんでちゃんと検査できているだろうか?と不安になってくる。

終わった後、あなたの視力はいくつです、
とはなぜか言ってくれない。
(後で知ったが、病院ではなくメガネ屋での検査とはそういうものなんですってね)
かわりに何やらいろんな計算をしている。
あのぉー、乱視があると思うのですが?と言ったら、

ええ、乱視はかなりありますね、とさらりと言う。
お客様の場合、本当は遠近両用が必要ですが、

慣れていないと使いづらいのでお勧めしません、
それぞれ二つ持ったほうがいいですねとのこと。
来年免許書き換えなんですが、ひっかかりますかねえ?

とおそるおそる聞いたら、
ええ、間違いなくダメですね、とツレナイ返事にショックを受ける。
免許パスのためのメガネは遠方用だ。

今回はとりあえず、
本やパソコンなど近いものを見るためのメガネを作ることに。
遠方用は書き換え前にまた作らなきゃだ。(T ^ T)

しっかし。メガネ、似合わないのですねえ、これが。

なんとか少しはマシと思われるものを探す。
ま、似合うも似合わないも、人はそれほど他人のことを
見ちゃいないのだろうけれど。

試しに今、メガネをかけてパソコンに向かっている。
おおぅ〜文字がクリアに見える。
しばらくかけて、はずして見ると、ものすごく見えづらい。
でも、昨日まではこれを普通と思って見ていたのだよな。

メガネをかけたまま、遠くからテレビを見る。
非常に見えづらい。見事に手元オンリーのメガネだ。

いずれは遠近両用メガネを買う日がやってくるのだろうか。
あの、中高年特有の、上目遣いで人を見る、
そんな仕草もするようになるのか。
チェーンなんかもつけちゃったりして、
和泉元彌の母みたいな感じに私もなるのか。
と、メガネ屋のお兄さんに聞いて、はいない。