2015年9月29日火曜日

シェフ108号発売!!







すでに書店に出ています。よろしくお願いいたします。

巻頭特集は「レストランを継がせる想い、継ぐ覚悟」。
オーベルジュ オー・ミラドー、北島亭、オトワレストラン。
いずれも、今まさに2代目にバトンタッチしようとしてるお店です。


グランシェフは ル・マノアール・ダスティンとレストランモナリザ 恵比寿本店。
秋のスペシャリテはレストラン リューズ、ロテスリーレカン、
ラ・カンロ、ルカンケ、ラール・エ・ラ・マニエールを掲載。
その他、レストラン ペタル ドゥ サクラ、レストラン パフューム、
エマーブル、レストランユニック、アドック、リアン、
オ デリス ド ドディーヌ、ビズ神楽坂、ニ・ド・ワゾォー、
アデニア、レストランFEU、ル・ジャポン、
アンフュージョン、ビストロ ホリテツ、コンヴィーヴィオ、
パッソ ア パッソ等の皆様にお世話になりました。



2015年9月25日金曜日

夜の訪問者

夜、ソファに座ってテレビを見ていたら、
テレビの斜め上、ロフトの角から、何者かがカーテンを伝い降りてきた。
クモである。足の長い、巨大なクモだ。

虫ってやつは、こちらが見ている気配がわかるんだろう、
「ヤベ、バレちゃった」とばかりにカーテンの途中でいったん動きを止める。
と思ったら、次の瞬間、目にも留まらぬ速さで壁伝いにどこかへ消えた。

日頃から時折、家の中でクモに出会うことがある。
しかしその場合のクモは5ミリ程度のもの。
ほっておくか、気になる時には
空のペットボトルを使い、その口の中心にクモが来るようにして壁に押しつけ、
中に入り込んだらフタをして、外へ逃がす。

しかし今回のクモはデカくて逃げ足が速く、とても捕まえられない。
私は仕方なく新聞紙を筒状に丸め、ソファに待機した。
しばらくして、机の上の壁に這い出てきたのを発見、叩こうとしたが
私がビビッているせいか、うまくいかない。
またしても逃してしまった。

殺虫剤を探すと、どういうわけかアリ用のものしかなかったが、
一応それを用意して再び待機。
やがて、テレビに気がそれ始めた頃、
脇のカーテンを伝って登っていくクモの姿が。
まるで「やれやれ、お家へ帰ろうっと」という感じで、元来た道を戻っているのである。
いったいいつからあいつはロフトの住人になっていたのだろうか。

今が最後のチャンスと、私は殺虫剤をスプレーした。
クモはささーっと下りて、テレビの裏、そして観葉植物の鉢の裏へと移動した。
その間も私は殺虫剤で追いかけた。
やはりアリ用では致命傷にはならないようだ。
しかしだいぶ動きはゆっくりになったので、私はとどめの一撃を加えた。
長かった足は小さく丸まって、動かなくなった。

朝のクモは縁起がよくて、夜のクモは「ヨクモ来たな」と殺したほうがいいと聞く。
あるいは、クモは益虫だから殺さないほうがいいとも。
調べると、殺したクモはアシダカクモといい、
ゴキブリなんかを食べてくれる益虫で、人間には害を及ぼさないが、
見た目が気味悪い不快害虫だとある。

殺さないで何とか外に出す方法はなかっただろうか。
ロフトの住人として黙認してもよかったのではないだろうか。
今後、我が家にはゴキブリが出ることになるのだろうか。

テレビでは、シリア難民の受け入れ拒否を示す国のニュースが流れている。
私は罪の意識に苛まれる。


2015年9月12日土曜日

父の手

私は4年半前にフリーランスになるまで、
スマホはおろかケータイも持ったことが一度もなかった。
それまでは必要性を感じなかったのと、
電車内で全員がケータイを見つめる光景や、
私と一緒にいてもケータイに気がとらわれている様子が嫌だったからだが、
両親はいまだに持っていない。
これはひねくれ者の血筋か、家訓か。


昨夏に1カ月入院して以来、
父は日に日に細く小さくなっていき、足はおぼつかなくなり、
好きだった読書や映画鑑賞もまったく興味を示さず、
ただ病院に通い、大量の薬を飲み、
口を開けば体に関する愚痴を語るだけの日々を過ごしている。
夜眠れないと、精神科(最近はメンタル科と言うらしい) で安定剤や睡眠導入剤まで
処方してもらっている。
が、それでたとえ夜眠れても、すがすがしい朝ではなく、
翌日昼間も頭がぼんやりしているという。
それだけの薬を飲んでいたら、当然のことながら腸内環境は悪くなる。
今度は腸の検査にも行ったらしい。
ピンピンコロリしたいが、持病は治る見込みなく、もはやピンピンは望めず、
さりとて、コロリにもなかなかならず、
生きていることに何の希望も見出せないようだ。
マンションの屋上にも行ってみたが
なかなか飛び降りる勇気はないという。

眠れなかったら開き直って布団から出てテレビでも見ればいい、
次の日の昼間、眠くなった時に寝ればいい、
何なら、そんなに死にたいなら、三日三晩不眠に挑戦してみたらいい、
(できずにどこかで必ず寝るはずだから)
と私は言うのだが、
「つい我慢できず、薬くれーって、ヤク中毒みたいなもんだな」
と、なかなか聞く耳を持たない。
あくまでコロリと死にたいのであり、
ジワジワとした苦痛はつらいのだろう。


一方、父より9歳下の母はスポーツクラブに通うくらいの元気がまだあるが、
耳が遠い。一度、病院に行き、いろいろな補聴器を試したのだが、
それがどれも合わなかったことに加え、プライドがあるのか、
補聴器の話をすると非常に嫌がる。
しかし、こちらも日ごと悪化しているようで、
一緒に暮らしている父には、気が気でないらしい。
さらには「お母さんはどうも認知症初期のようだ」と父が言い出した。
時折、母が出かけている間に私にこっそり電話をかけてきて、
愚痴をこぼすようになった。

外出中の母に自宅の父が連絡を取りたい場合、
あるいは二人が病院などに出ている時に(もはや父は一人で外にはほとんど行けない)
何か緊急事態が起きたらすぐに私に連絡できるように、
携帯電話が必要だ、と、
ひねくれ家系の長がとうとう折れた。

私は自分と同じ会社のもので、シニア向けの携帯を吟味し、それを1台購入した。
あくまでケータイだが見た目はスマホ仕様で、
単純化させた見やすい画面、使用料も安い。
緊急ブザーを鳴らせることができ、また、
それと同時に私のスマホにつながるシステム。
GPSで位置を私が把握でき、
24時間使っていないとそれも私に連絡が届く。

しかし、そのケータイはあまり売れていないのだろうか、
取り扱っている店が少なく、扱っている店を訪れても、
料金プランを店員は把握していなかった。
今どきのシニアは、とうにケータイやスマホを使いこなし、
こんな「年寄り騙し」なケータイなど使いたくないのかもしれない。


両親を前に、ひと通り、やり方を説明する。
扱いに慣れるにはしばらく時間がかかるだろうが、
それよりも意外な点で困ったのは、
両親(特に父)が触れても、タッチパネルの反応が鈍いということだ。
カサカサパキッと折れる枝のような父の指とケータイの組み合わせは
あまりに異様でせつなかった。
「眠れない夜は、ヒマつぶしに私にメールしてみてよ」
と伝え、両親の家を出る。


あれは私が幼稚園生の時。
運動会でマーチングバンドを組んだ際、
女の子の花形であるトワリングバトンを私も希望したが、
その地位につけるのはすらりとしたキレイどころであり狭き門、
体の小さい私にはカスタネットが与えられた。
シロフォンでもドラムでもなく、その他大勢、いわば二等兵。
悔しかった。バトンが欲しかった。
それを父にねだったのかは記憶にないが、父はバトンを買ってくれた。
腕をまっすぐにのばし、手首をクルクルと回す。
水平に回す方法もあれば、縦に左右に回す方法もある。
バトンは金属製で重い。先端にはゴムがついているものの、
振り回して顔に当たればそれなりに危険だ。
父はまず、ホコリはたきを使って手本をやってみせた。
何か他にふさわしいものはなかったんだろうかな。
でも、父はあくまで真剣に教えてくれたのだった。
父の手は、しなやかだった。


どうせなら、我が家ももう少し早くケータイを持つべきだったかな。
そうしていたら、少しは楽しいやりとりができたのかな。
人生最初にして最後に両親が持ったケータイから私にかかってくることは、
悪い知らせ以外、望めそうにないのだ。



2015年9月6日日曜日

ホテルオークラの思い出

ホテルオークラ東京の本館が閉館になった。
惜しむ声が多いとのニュースが報じられている。

私にとって、ホテルオークラ(昔は東京とはつかなかった)は
仕事に行く場所だった。
小野正吉総料理長の晩年時代、
私は連載のインタビューを受け持っており、定期的に通っていた。
1990年代の話である。
当時、小野氏には『シェフ』の顧問もやっていただいていたので、
年始の挨拶などにもうかがい、
小野氏のフランス国家功労章シュヴァリエ受章のお祝いの会や、
あるいは業界関係者のパーティーもよく行われていたので、
何かにつけ訪問する機会があった。
南北線はまだ開通しておらず、
虎ノ門駅から虎の門病院脇を歩いて行くルートで通った。
駅から遠く、上り坂で息を切らしていることもあり、
また、20代の私には、小野氏のインタビューは非常に緊張する仕事だったので、
少し早めに到着し、ロビーで呼吸をととのえるのが常であった。
オークラならではの和モダンなロビーは、
不思議と心を落ち着かせてくれる空間だった。

小野ムッシュ(と呼ばれていた)は私と同じ(いや、私が同じ)浜っ子で、
ちょいとべらんめえな口調だった。
私は緊張しながらも、時々、まるで親戚のおじさんか祖父と
話しているかのような気持ちにもなった。

最後のインタビューは、体調を悪くされている時期で、
いつでも休めるよう用意されていた客室に通された。
探せばその時の録音テープがどこかに残っているはずだが、
特に印象的だったのは、
どなたかからの差し入れらしい和菓子があって、
それをすすめられたこと。
小野ムッシュがなかなか手をつけないので私もそのままにしていたら
「いいからあんた、早く食べろ」と言われた。
おそらく、小野ムッシュはもう、和菓子を食べる欲などなかったのではないか。
シャイな人だった。


そして、もう一つの出来事。
やはり20年前のこと。
私はオークラの別館から本館に向かう上りエスカレーターに乗っていた。
私の前にも後ろにも誰も人はいない。
見上げると、数人が一列に連なって下ってくる。
何か黄色い光を放つかのような集団。
左右が壁で他に何も視界には入らない。
だんだん近づいてくると、
前後の人に挟まれた真ん中の人が誰であるのかがわかり、
私は「ハッ」とした。
ハッとした顔のまま、かたまった。
間もなく、私とその人がすれ違うというところで、
その人はにっこり微笑んで、わざわざ体を私に向けて、手を合わせた。
私も思わず真似て合掌した。
その人とは、ダライ・ラマ14世だった。

私にとってホテルオークラは、感謝と奇跡の場所である。