2012年11月29日木曜日

給食嫌い

先日、都内の公立中学校の給食を目にする機会があった。
五目ご飯、粕汁、ぶどう豆、ジョアだった。
牛乳じゃないことに驚いたが、おそらくこの日はたまたまだったのだろう。
お調子者の生徒が ♫ジョア ヤクルト ジョア 誰のもの〜♪と
剛力彩芽のCM曲を浮かれて歌っていたから。
(ちなみにこの曲、作詞・作曲は浜口庫之助。その昔、小柳ルミ子が歌っていた)

料理すべてが同じような見た目、味の傾向なのが気になる。
栄養バランスや咀嚼させることを考えた結果なのだろうけど、
五目ご飯と粕汁、どちらも刻んだ根菜など具材が似たりよったりだし、
副菜の煮豆も甘くもっさりしてもたれそうな感じ。
せめて副菜は酢の物とかマヨネーズ系にするとか、
あるいは卵焼きや茶碗蒸しのような粒々していない食べ物にするとか、
汁物はすましにするとか、メリハリつけられなかったのだろうか。
と、父兄でもないのに、一人うっすら憤ってみた。

どうも給食に対して良いイメージがないからかもしれない。
私の場合、中学はお弁当だったので、給食の思い出は小学時代になる。
ご飯は一度も出ず、6年間パン食だった、というとわりに驚かれるようだ。
少し下の学年からは週1回くらいご飯が出たようだが。
このパンがね、まあ実に美味しくなかった。
パサついたコッペパンが主で、たまに食パンだったけど、どちらも苦手だった。
牛乳。これがまた体質的にダメで1本飲むことはできなかった。
だからチビだったのかもしれない。
プロセスチーズも嫌い(あの頃もしナチュラルチーズがあったなら良かったのに)、
五目豆のたぐいも苦手(パンのおかずとしてどうなのさ?)、
鯨肉の竜田揚げは一見美味しそうだが、かたくてかみ切れず、飲み込む時が恐い、
と、かなり好き嫌いが多かった。
好きだったのは、揚げパン、フルーツのヨーグルトあえ、ソフト麺&カレーくらい。
このメニューの時ばかりは私もおかわりをしてみたかったが、
おかわりをするには完食しなければならないルールだったので、
牛乳を飲みきれず他のおかずも残しがちな私には永遠にチャンスはない。
いつもジャイアンみたいな男子2〜3人と、花沢さんみたいな女子1人くらいの
決まったメンバーがおかわりを競っていたな。
ちなみに毎月の献立表は、トレーシングペーパーのような半透明の薄い用紙で、
配られるたびに、それを口に当て息を吹きかけ音を鳴らす、という
何がいったいおもしろいんだ?的なガキの習わしがあった。

ソフト麺&カレーは、好きではあったものの、その分量比率にいつも不満を抱いていた。
麺の量に対し、カレーがひどく少なすぎるのだ。カレーの中に麺を入れてあえると、
ほとんど液体はなくなり、黄色いカレー風味の麺だけ状態になってしまう。
あくまでルウのとろみ感を堪能したい私は、配分を考えつつ、
舌のくぼみにまずカレーを少量入れ、
その上に一口分に切ったソフト麺を置いて口中で混ぜるという技を編み出した。
周囲の者にもフォロミーをすすめたが、賛同者は少なかったような。
お行儀が悪かった?
でもさ、考えてみて欲しい。
カレーの中に、ほぐれていないソフト麺の塊をドボンと入れて混ぜるのだって
お上品とはいえないのでは?
つけ麺みたいに麺がほぐれているならばわかるけど。
せめて麺の上にカレーをかけて欲しかったのですよ。

器も今思うと、ひどかったなあ。
刑務所で使われていそうなペラペラのアルミプレート&先割れスプーン。
あれでは食欲がわかないだろう。今どきのプラスチックのほうが少しはマシかな、
いや、それも本当はイヤだな。
本物の陶磁器や木椀だったら良かったのに。

学校創立記念の日、特別にケーキが出た。
1人前サイズのデコレーションケーキ。
私たちは狂喜乱舞した。いざ実食!
・・・マズイ。実にマズイ。生クリームではなかった。
今は、本物のバタークリームのケーキが美味しいことを知っているが、
あの頃のバタークリームはおそらくバターではない安い油脂を使用していたため
美味しくなかった。私だけでなく、他の子も、
一口食べてみんな残してしまい(ジャイアンと花沢さんはどうしていたかはわからない)、
先生は「食べ物を祖末にするとは!!」と怒った。
確かに食べ物を残すのはよくない。
しかし、子供騙しなマズイものを作る(発注する?)そのセンスに問題はないのか、
無理するくらいならまんじゅうにでもすればよかったのに、
と、子供ながらに調理クラブ部長としては納得がいかないのだった。

2012年11月23日金曜日

新たな絆

「お元気ですか?」
「ええ、まあ何とか」
お裾分けしたいものがあり、以前住んでいた家の大家さんに久しぶりに電話をした。
今住んでいる所から数駅の距離で、二世帯住宅の1階に私は住んでいた。
2・3階が大家さんの住まいで、奥さんは偶然にも元編集者、ご主人は作家、息子さんが一人。
1階部分だけとはいえ、一軒家であるのにはかわりなく、門や玄関扉までの階段もあり、
住み心地は快適で、私は11年そこに住んでいた。
大家さんと一緒の家なんてうっとおしいのでは?と人から聞かれることもあったが、
彼らは普段は決して干渉せず、それでいて、私が風邪で高熱の時には車で病院に連れていってくれたり、雪が降った翌朝にはもう玄関の階段が雪かきされていたり、
“妙齢のお嬢さん”がトイレットペーパーを買って持ち歩いている姿は忍びないからと
定期的に差し入れてくれたりした。

引っ越すきっかけとなったのは、
息子さんが結婚を機に1階部分に住みたいということで、
いわば、私は退居させられた形になるのだが、
その目的のために家を改築したと入居時に聞いていたし、
私もそろそろ環境を変えようかなと思っていたところだったので、
さしてショックでも迷惑でもなかった。
しかし大家さんはご夫婦揃ってある雨の夜、私の玄関先で、本当に言いづらそうに、
申し訳なさそうに「あくまで相談なのですが」と話し、私が即答で承諾すると、
ホッと胸をなでおろしていた。
最後の2カ月分の家賃をタダにしてくれたうえ、敷金は全額返金、恐縮したのはこっちのほうだ。

電話の返答に、ややムリがある響きがあったのが気になったが、ともあれ、
駅前の喫茶店でお茶でもということになった。
「お久しぶりです、みなさんお元気ですか?」
と私が再び呑気に社交辞令としてたずねると、
奥さんは「実は・・・3月に主人が亡くなったんです」と言い、目を潤ませた。
まだ65歳、肺がんと診断され半年で亡くなったという。
痛みに苦しみながらもまったく弱音をはかず、
最後の頃は緩和のためのモルヒネのパッチも断り、
幸せな人生だったと言葉を残して逝った。
彼の希望で、生前には兄弟にも知らせず、葬式は奥さんと息子さん夫婦で行い、
後日に近親者に知らせたという。
それには、彼の複雑な生い立ちが深く関わっており、
そうした話も奥さんは私に話してくれた。
晩婚の2人は結婚式も披露宴もしていないが、見かねた周囲の友人たちが
パーティーをセッティングしてくれた、と、その時の写真を見せてくれた。
「今こうして改めて見ると、彼、かなりハンサムだったんだなあって。
私、ものすごい嬉しそうにデレデレしちゃってるわね」と照れながら涙ぐむ奥さん。
そこに写っているご主人は、本当にいい男であり、
それから20年30年経って私が知っている彼も、その頃の面影のある、素敵な人だった。
自分の美学を持ち、知的で、他人を蔑まない謙虚な人だと私は感じていた。
「彼は私より年下なんだけれど、男女は平均寿命差があるから、
ちょうど同じ頃に死ねるよと結婚の時に言ってくれたのにね」
今は少しずつ遺品の整理をしているが、書き遺した原稿には手をつけられていないし、
骨は海にまいて欲しいと言われているが、まだその決心ができないという。
ふとした時に涙が流れてしまう、“時薬”はなかなか効かないものですね、と。

私は、自分でもびっくりするくらい、喫茶店で号泣してしまった。
しかし、私と元大家さんとの交流は、本当の意味での交流は、
今日、始まった気がする。



2012年11月18日日曜日

赤帽さん

友人H.Oが昨日、引っ越しをした。
私が今の家に引っ越す時、彼女は泊まりがけで手伝ってくれた。
なので、今度は私が助っ人に、
なんならざる蕎麦片手に積み上げ(フロマージュ号に乗って)、
岡本信人になって(あれは岡持ちか)届けるぞ、
と行く気満々だったが、
荷物がそんなにないから人手はいらんとのことで招集かからず。
お役に立てず、残念。
近々、渡辺篤史の建もの探訪をしたいと思っている。

実家で暮らしていた頃は引っ越しを経験したことはなかった。
一人暮らしで家を出た時からは計4回。
まあそんなに多いほうじゃないですよね。
葛飾北斎なんて93回引っ越したらしい、多い時は1日で3回とか。
どんだけ身軽なんだ、敷金礼金なぞもなかったんだろうねえ?

私も実家を出る時は、ほとんど荷物がなかったので、
友人で酒屋の娘であるM.Sの家の軽トラを借りた。
2回目もやはり業者には依頼せず、友人Y.Mに手伝ってもらった。
振り返ってみると、いつも友達に助けられ、安上がりに生きてきたのだねえ。
3回目はさすがに荷物が増えており素人ではキビシイため、赤帽に依頼した。
そして4回目は初めて引っ越し業者に依頼。
4回とも7〜8月だったため、私にとって、引っ越しはまさに汗だくのイメージだ。
1度ガス業者を呼ぶのを忘れ、水シャワーを浴びたことがある。
たとえ真夏で汗だくでも、水はかなりツライということを知りました。

4回目の引っ越し業者のお兄さんは3〜4人いたと思うが、うち2人は未成年だった。
今住んでいるマンションは外壁が真っ白で角がすべて丸くなっており、
おそらくは地中海のリゾートをイメージしたデザインなのだが、
彼らの一人が開口一番「へえ〜・・・なんつーか、カマクラみたいな家っすね」
鎌倉???・・・・ あっ、雪のカマクラね!!
彼は地中海の白い街並なんて知らないのだろう。
人は、自分が知っている世界の中から言葉を引き出すのだなあと改めて感じた。
しかし彼がそう言ったおかげで、私もこの家はもはや地中海ではなく
カマクラに見えてしまうのだった。あたしゃ、雪ん子か。

引っ越しではないのだが、赤帽の思い出がある。
最初に勤めた編集プロダクションで、
よく言えばインテリアのスタイリストもどき、実状はパシリの仕事をしていた。
例えば、撮影のたびに東急ハンズだのインテリアショップだのに借り出しにまわる。
ある時、赤帽に同乗し数店をまわり、家具などの大物をピックアップすることがあった。
昼時になると、赤帽のおじさんは「美味しい天丼の店があるんだよ」と
場所は覚えていないのだが、とにかく私を連れていってくれた。
初めて見る特大の海老がのった天丼。2000円近くしたような気がする。
それをおじさんはごちそうしてくれた。
当時の私にとっては、とんでもなく高級品だ。
そもそも本来ならばこちらが経費で昼を用意する立場ではないか。
しかし会社からはそこまで言われておらず、世間知らずの私はわかっていなかった。
あのおじさんの日当はいくらだったのか。1万円にもならないくらいでは?
2人で4000円の昼食代では、儲けは半分になってしまったのではないか。
今でもたまに思い出し、感謝の気持ちがこみあげるのだった。


2012年11月13日火曜日

I ♡ GIN TONIC

ジン・トニックが好きだ。
誰が何と言おうと、誰も何も言わないけど、好きなのだ。
苦甘い味&植物系の芳香&炭酸、なんと素晴らしい組み合わせ。
外で飲む時はいつもオーダーするし、家でもよく作る。

以前、取材でバーテンダーに美味しいジン・トニックの作り方を教わった。
ライムをグイグイしぼらないこと(イヤな苦味を出さないようにするため)、
ライム果汁とジン、氷をグラスに入れたら30回くらいグルグルかき混ぜて
一体化させた"タネ"を作り、これを溶きのばすように
トニックウォーターを注ぐこと、注ぐ時は氷にぶつけないように(炭酸が抜けるため)などなど。
すべての材料とグラスを冷やしておくのが理想だが、
家の冷蔵庫(冷凍庫も)にスピリッツを入れるゆとりがないので、
ジンだけは残念ながら常温だ。
あ、ついでの話だけど、我が家の場合、野菜室に醤油やみりん、酢等の
大瓶類を保存している。それだけで結構いっぱいになってしまい、
スピリッツどころか野菜を入れるスペースすら少なくて困っている。
みなさんのおうちではどのように保存しているのだろう?

さて、主役のジンであるが、私個人の好みというか
家で使っているのは「タンカレー」または「ボンベイ・サファイア」。
タンカレーは私にとってのスタンダード・ジン、
洗練されたバランスの良い味、と思う。たぶん。
ボンベイ・サファイアはジンの基本的な原材料のネズの実(ジュニパーベリー)の他に
レモンピールやコリアンダーなど多種の植物を使用しているので、
口に含むと複合的な香りが広がる個性派。
ジン・トニックにせず、そのまま飲んでも旨いタイプだが、
私はお酒に弱いのでダメなのだ。




最近新たにジンメンバーに加えたのが、
キングスバリー社の「ビクトリアンバット」。
これはネズの実の香りが強いが、荒々しいわけではなく、
樽熟によりうっすら琥珀色、トロミ感というかまろやかさがあっておもしろい。




まだ飲んだことがないけど飲みたいなあと思っているのは
「シップスミス」のドライ・ジン。タンカレーやボンベイ・サファイアが
750㎖で1000円台半ば、ビクトリアンバットがちょっと高くて
700㎖2980円くらいだが、シップスミスは約3500円と更にお高いのよねえ・・・。

http://www.sipsmith.com/


昔、スペインのメノルカ島に行った時、
中心地のマオンで造られているジンを飲んだ。
スペインでジンとは意外だが、イギリスの統治下にあった歴史による。
昔ながらの単式蒸留器を使い、穀物ではなくブドウベースで造られているらしい。
島では、ジンをレモネードで割った「ポマーダ」というドリンクが
定番でそれを飲んだので、ジン自体の味がどうだったかはわからない。
少量ながら日本にも入ってはいるようだが。

http://www.xoriguer.es/


そしてトニックウォーター。
まあ、比較的美味しいのはシュウェップスやウィルキンソンだが、
(とか言いながら安い&再栓できるカナダドライ買っちゃったりもするんだけど)
本来の成分キニーネは、薬事法に触れるということで
残念ながら国産品には含まれていない。
キニーネは、ペルー原産のキナという木の樹皮から抽出したエキス。
現地では解熱剤として使われており、
17世紀、スペインでマラリアの予防薬として注目され、
19世紀初頭、イギリスの植民地だったインドで、
キニーネを砂糖で甘くしたトニックウォーターが生み出され、
兵士たちが常飲していたという。
ドライ・ジンの主産地はイギリス、なのでジンと合わせてみたら、
あんれまあ、なんて旨いもんじゃろかこれは、となったわけですな。


2005年くらいから販売されヨーロッパで人気になっている
「フィーバーツリー」という製品がある。

http://www.fever-tree.com/


人工甘味料・香料・保存料は不使用、
アフリカ・コンゴの天然キニーネが使用されているという。
フィーバーツリーとは、キナの木の別名だ(熱病に効く木って感じでしょうね)。

飲んでみたいなあ、と思っていたら、
あれれっ? いつの間に日本でも売っているじゃないか。
今年7月から発売されているんだそうだ。
私としたことが、ぼんやりしておった。
ジン・トニック愛好家失格だ。
資格を剥奪されるかもしれないが、そんな資格は取ってなかったので助かった。






早速試飲。さぞやキニーネの苦味が強いのかと思いきや、
ほぅ〜、わりにやさしい味わいなのね。
細かい泡、上品な甘さで後味がしつこくない。
ナチュラルってこういうことなのねえ。
200㎖で195円とこれまたチトお高いので、ガブガブ飲むというわけにはいかない。
今日はきちんと丁寧にジン・トニックを作ろう〜っていう、
ご褒美な時にご登場いただくとしよう。


2012年11月7日水曜日

福来る?


お菓子を入れて食べ終えた空の器を今、何気なく見たら、
硬貨が1枚入っていた。
そんなところにお金を入れた覚えはない。
お財布も出していない。
こんな不思議なことってあるかしら?
しかもそのお金ときたら、日本円ではない。



なんだこれは???「福」の文字。
なんでなんで?いったいどーいうことだ。
しばし、きょとーーん。

目をこらし裏側の極小の文字を見ると「REPUBLICA PORTUGUESA MACAUとある。
昔のマカオのコインだ。

ああ、そうか。
数時間前、ロフトの階段の上で、フタがしっかり閉まっていない工具箱を
誤って持ち上げてしまい、使う予定ないのになぜか持っている
ナットやボルトみたいなものをバラバラと下にまいてしまったのだ。
おそらくその時にこのコインも落ちたのだろう。
なあんだ。すごい奇跡が起きたのかと思ったのに、
自分でまいたタネならぬコインだった。
なんで工具箱に入れていたのかはまったく記憶にない。

生まれて初めての海外旅行は香港・マカオ・広州のツアー旅行だった。
マカオではカジノに行った。
訳もわからぬまま、一番簡単そうなスロットマシンをやってみた。
すると、となりの男が声をかけてきた。
「ドコカラ、キタ?」
カタコトの日本語が話せるアジア人だった。
「あ、えっと、日本、ジャ、ジャパン」
「ワカルヨ、ニホンノドコ?」
「横浜」
 「アアソウ、オレ、セタガヤ」 
日本人じゃないか。
ジャパンってアタシ、何言ってるのだ、郷ひろみか。
でもその男、ほんとに日本語ヘタだったんだもん。

結局、スロットマシンはトントンで終わった。
マカオではカジノしか行ってないので、
たぶん、その時に残った1枚なのだろう。


ひょんなことではあるが、上から福が降ってきたことには違いない。
ナットやボルトは床に散らばったのに、このコイン1枚だけが
テーブルの上の小さな器にのったのだ。
ひょっとして何かいいことあるかも、ね? 
さて、どこに置いておこうかな。


2012年11月2日金曜日

厨房に入る

レストランへ取材撮影に行くと、私は必ず厨房に入って調理の様子を見せてもらう。
それがあたり前だと思っていたのだが、どうやらそうでもないらしい。
「ここまで見に来た編集の人は初めてですね」と驚かれることが時々あるのだ。
一般誌ならまあわからなくもないのだが、
専門誌においても厨房を見ないとは。こっちが驚いた。
あ、もちろん、勝手にズカズカ入るわけじゃないですよ、
シェフの許可を得てからですよ。
シェフによっては、あんまりそばで見つめていると
落ち着かないという人もいるので、そのような場合は少し距離をおいて。
一方、シャッターを切る時など、写真撮影の重要な場面では
シェフと話したりせず、必ずカメラマンのところに。
できるだけカメラと同じ目線の位置に立つ。
そうしたやり方を元いた会社のスタッフにも徹底させていたつもりだったが、
どうもそうしていない様子なのだ。
なんでなんだ?

私はいわゆるグルメライターではないので、
文章を書くにあたり、絶品! ウマっ!究極の味、といった味の賞賛はしない。
また、「素材の持ち味を最大に引き出す」だとか
「手をかけ過ぎないようにしている」だとか
「クラシックをベースにオリジナリティを付加」だとかの、
私からするとよくありがちな、あるいは曖昧な
シェフのセリフをそのまま書かないようにしている。
かといって、その言葉に化粧を施し、より耳あたりの良いキザなセリフに
仕立てることもしない。

それでは、原稿が書けないのではないか?
そうです、書けないです、私には。そんな手法では。
厨房をのぞいたから書けるわけではもちろんないが、
せめて少しでも料理が作られるライヴを見ることで、
料理される前の素材の状態がわかるし、
インタビューや紙に書かれたレシピだけでは得られない事実がキャッチできるし、
更なる質問も出てくる。逆に、見てわかったことはもうシェフに
いちいち聞かないで済むということもある。
調理そのものだけでなく、厨房の構造や衛生状態、スタッフの動きなど
さまざまな要素を観察することで得られるものがある。
おそらくノンフィクションライターと同じ感覚かなと思うが、
そうした事実情報をより多く、できるだけ正確に得て積み重ねていくことで、
そこから言葉を紡ぎ出したい。
わかった気になってパターンにはめたり、
ムーディー(中身はスカスカ)に逃げずに
みっちりずっしり実が詰まってお得だわこれ!! な原稿にしたい。
素材を生かす、ではなく、素材を生かすとは具体的にどういうことか、を
追いたい。私が褒めたたえたりせずとも、その料理を的確に説明することで、
これは美味しいものだろうとわかるような文章を書きたい。

まあようするには、自分自身が持っているものなんて
なんぼのもんじゃいということですな。
厨房も見ずに、料理が出てくるのをお客さんみたいに待って、
それを味見でもして感想で文を書くなんて技は私にはできない。
それに、単純に言ってのぞき見たいのだ。見ずにはいられないのだ。
厨房が好きなのだ。厨房に限らず物作りされる現場が好きだ。
ずうずうしいのかもしれないが、
(それで元スタッフたちは気兼ねしているんだろうけど)
邪魔なら邪魔って叱られるだろうし、
しかしそう言われたことは・・・記憶にないなあ。
シェフが呆気にとられて言えないだけなのかどうかは知らないけど。
 
だから、これからもこのやり方でいくさ、私は。

ただ・・・悩むことがある。
そうは言ったものの、調理を見ずして取材記事がまとめられ、
それが世に出て、実際に売れている。つまりそれで良しとされている。
私がやっていることよりも、そっちのほうが世間的には支持率が高いとなれば、
いったい私は何のためにやり通す気なのだろうか。
細かく裏を取る作業に何か意味はあるのだろうか。
と、たまにフテクサレル。