2014年8月15日金曜日

父の涙

前回のブログをアップしたその時、ちょうど電話が鳴った。
夜の9時半くらいだった。
相手は母ではなく、病院の看護師だった。
「お父さんがまた喀血しまして、担当医からお話があるので、
 お母様と一緒にこれから来ていただけないでしょうか?」
病院に駆けつけると、父は再び喀血しているらしく、
看護師の垣根の向こうでえづく声が聞こえる。
私たちは、そのとなりの小部屋で医師の話を聞く。
担当医は過去に父が通院していた時の主治医とは違うようで、
私よりもずっと若いお兄さんだ。
カーボン式のノートに病名や症状を書く、その字の丸っこさといい、
風邪気味なのか、時折鼻をすすりながら「実は〜」を連発して説明するその雰囲気は、
まるで、インターネットの加入手続きか何かを行う販売員のようだ。

今夜が峠だと言われるのかと思ったが、そうではなかった。
しかしホッと一安心、はできなかった。
長年、非結核性抗酸菌症という病を患っており、抗生物質が効かなくなっていること。
(結核と異なり、人から人への感染はないが、今や完治可能の結核に比べ、
 非結核性はズバリと効く単一の薬はまだない)
肺全体に出血が見られるので、どこか一部を切り取る手術をすれば治る
というものではないこと、いつまた喀血が起きるかは予測不能、
問題は、もし大量の喀血が起きた場合には、窒息死するということです。
その時はしばらく苦しくてかわいそうですが、
ただ、数分で気を失います。


つまり、知らせが来ても間に合わないわけですね?
などと、私は意外に冷静に質問しているなあ、と私が思う。
なぜ先生は鼻をすすっているのだろうかなあ、とも思う。
こんな小さな部屋なのに、まるでとなりの部屋にいる父にも聞かせたいのか、
と思えるくらい、やたらと声がでかいセンセーだなあ、とも思う。
感情というものがわいてこない。

がんなどと異なり、余命何カ月です、とは言えない状態。
今日か明日かもしれないし、あるいは来年かもしれない。
峠などはなく、一発ドカンでさらばの地雷だ。
そして、致命傷には至らずとも、軽い爆発は今後も頻繁に起きる。

部屋から出ると、父は容態が落ち着いたようで、眠っていた。
母と私は終電に乗った。
「これから、どういうふうにしようか? 見舞いの体制というか・・・」
「うん、大丈夫、今度からはちゃんとシルバーパス、下駄箱の上に置いとくから」
噛み合っていない。
母はシルバーパスを持って出るのを忘れ、切符を買ったことを悔やんでいた。
こんな時でも、そんなことを考えられるのだ、人は。

終電は3駅手前止まりだったので、
そこからはタクシーで親の家に行き、私は初めて泊った。
いつ着ていたか記憶にないくらい昔の私のパジャマが出された。
実家を売り払って両親がここに移り住んだ数年前、
相当のガラクタを処分をしたはずなのに、
なぜこのパジャマは持ってきたのだろうか?

母と床を並べるなど何十年ぶりだろう。
カチカチと音のする時計がうるさいが、
耳が遠くなっている母には気にならないのか。
私は一睡もできなかったが、
背を向けた母から寝息が聞こえ始めたのも、明け方近かった。

それが土曜の夜。
あれから今日まで、とりあえず父の状態は落ち着いている。
決して贅沢をしないうちの親は、本当なら大部屋にいるはずなのだが、
集中治療室に入った後、大部屋のベッドに空きがなくなったため、
今は個室にいる。病院の都合なので、差額は払ってくれるらしい。
ラッキーじゃん、と言うと、そうでもないらしい。
一日中、壁か天井を見続けて頭がおかしくなりそうだ、
大部屋ならば、人間ウォッチングをして少しは気を紛らせられるだろうから、と。
テレビも個室なら見放題なのに見る気がしない。
ラジオは電波の入りが悪い。
読書好きなのに、数行読んではやめてしまう。
点滴やら血中酸素濃度計やらが常に体についており、
足腰がめっきり弱々しくなったため、廊下を散歩することもできない。
入院すると、途端に認知症まっしぐらになる人が少なくないと聞く。
この調子では父も危うい。
私はどうにかして、それだけは阻止したいと思い、
クロスワードパズルや、ペン習字練習帳(父は習字を習っていたため)、
よりぬきサザエさん(戦後の話だから)、
東海林さだお氏のエッセイ(料理をする父に昔あげたらおもしろがったので)など
気軽に楽しめそうなものをベッド脇に置いた。
本当はDVDプレーヤーで映画を見せるのがいいのではと思うが、
機械の操作や充電など、ややこしいものは無理そうだ。

今日、父の病室に、孫が来た。
バツイチである弟の息子である。
離婚でもめ、基本的に弟は息子に面会できない。
が、父の状況が状況なので、弟が連絡を入れたところ、
弟とは別に、彼は彼でジイちゃんを見舞いに行くという。
そのため、今日、彼に会うのは弟を抜いたジジババと私の3人。
かれこれ10年以上ぶりの再会だ。
私が病室に近づくと、すでに甥っ子が中にいてジジババと話しているのが
わかったため、しばらく3人での時間にしようと思った。
20分程、廊下で待った後、私も中に入った。
幼児だった甥っ子は、高校2年になっていた。
優しそうな男の子だ。
彼にはほとんど記憶がないが、ジジババは超がつく程の孫バカだった。
特にジジはそうで、また、甥っ子も特にジジのことを慕っていた。
そんな思い出話をしていたら、
父は「会いに来てくれて、こんなに嬉しいことはないよ」と泣き出した。
ホロッときたというより、大泣きだ。
私は、おそらく、生まれて初めて父が泣く姿を見た。

そんなに嬉しかったんだ。
それはよかったね。何かと親を困らせてきた弟だが、
父を喜びで泣かせる孫という存在をこの世に生み出した、
その1点だけで、帳消しになるんじゃないか、と思った。
私にはそれをしてやることはできなかった。



2014年8月9日土曜日

朝の電話2

一昨日、再びの朝の電話が鳴った。
母からだった。
前夜のメールでは、うまく行けば、
月曜あたりに退院できるかもという話だった。
「今、病院からなんだけど、お父さん、大量に喀血してね、集中治療室入った」
朝の電話は心をざわつかせるが、
朝4時前に病院からの電話で呼び出された母はもっと驚いただろう。

「喀血って何それ・・・」
「前からちょいちょい喀血はあったんだけどね」
「ええっ?」
本当にうちの親は何も子供に報告しない。
前々から肺の病を患っており、今入院している病院に通院していたのだという。
腎臓系の疾患で入院したのだが、
呼吸器科のいつもの医師に主治医が切り替わった。

「とりあえずもう大丈夫になったから、あんたは今は来ちゃダメ」
と言い残し、電話は切れた。
私は自分が幼稚園児くらいに思えた。

昨日、実家へ母の食事を届けた。
それを食べた後、一緒に病院に行くことにした。
昨日はダメだと言った母も、やはり一人の見舞いは心細かったのだろう。
父は、無数の管を通された状態で横たわっているのだろうか?
どんなふうに声をかければよいのだ?

集中治療室にはもういなかった。
その近くの病室に移されたところで、
父は点滴や酸素の管などをつけてはいるものの、自分の足で立っていた。
ホッとする母。
この2〜3日の出来事を私に報告する父。
すでに母から聞いている内容。一言一言を発するのがのろい。
しかし、父はしゃべりたいようなので、じっとただ聞いた。
久しぶりにまじまじと見つめ、父はこんな顔だっただろうか、と思う。
自分の中の父親は、おそらく50代くらいの頃のイメージで
とまっているような気がした。


トイレで大量に血を吐いた時に、つい流してしまったが、
「なんでそこでナースコール押してくれないのか、血を見たかった」
と看護師に言われたという。
人の汚物を観察したり処理したり、体を拭くなどを
厭わない看護師たちに、尊敬と感謝の念に堪えないと父。
「ほんとに。赤の他人なのにねえ」と私が相づちを打つと
「身内だってできないよ、おまえには無理」と言う。
その通り、私には看護師の仕事などまったくできないと思うが、
もしも親が要介護となったならば、どうなのだろうか。
無理ときっぱり言われ、集中治療室に来るなと言われ。
子供に迷惑かけたくない一心なのだろうけれど、
この子なら、まかせてもきっとやってくれるだろう、
という信頼がされていないような気もする。

入院の書類に、保証人として私は捺印した。
どんなことがあっても、どんなささいなものでも、
人の保証人にだけはなってはいけないと両親から口うるさく言われてきた。
それがいま、初めての保証人、初めて親の保証人になっている自分。
朝の電話にビビっている場合じゃないのだよな。




2014年8月2日土曜日

朝の電話

一日の中で最も健全な空気に包まれている朝にかかってくる電話は
どうして不吉な予感がするのだろうか。
昔の黒電話に比べたら、電子メロディ音はそれほど怖くないけれど、
それでも、なぜか、ドキリとさせられる。
昨日の朝の電話は母からだった。
「あのね、お父さんが夕べ、救急車で運ばれて・・・」
普段と違う、ゆったりとおだやかな口調が、怖さを助長する。
次の言葉を聞くまでの1秒かそこらの間、
私は「死んだのか。ある日突然、こんなふうに親の死がやってくるのか」と思った。
ベタなドラマのワンシーンのようだった。

結局、命に関わる程ではなかった。
熱中症とはまた違う病状ではあるが、ある種そのようなもので、
体力が回復するまでの間、入院ということらしい。
入院するにあたり、関係者3人の電話番号を病院に登録する必要がある、
それで万が一、私のほうにかかってきてびっくりするといけないと思い知らせた、という。
もし連絡先の登録がなかったら、おそらく昨日の電話はなく、
退院後の報告だったに違いない。
うちは、そういう家である。

そのため、まだ病院には行ってない。
父の身の回りの世話は母が行っているので、
私は後方支援担当として、母のための食事をいろいろ作り、弁当にして届けた。
父用に、小さいブーケと、100円ショップで購入した花瓶代わりのグラスを母に託した。
大げさなこと、贅沢を嫌う父なので、あえてささやかにしている。

どういうわけか、ブーケをほどき始める母。
「何しているの? まさかここで花瓶に挿して持っていくんじゃないでしょうね?」
「えっ ? あ、これ、お父さんにあげるの?」
私は家に着いて開口一番、「これ、お父さんに」と言ったのだが
それが母の耳には聞こえていなかった。
しかし、母の日でもないのに、ましてやこんな時に、
実家にブーケを花瓶つきで持っていくことをなぜ不思議だと思わないのか。

病院から入院に必要な物リストを渡され、それに従って持って行ったのに、
父は「こんな物いらない」とフォークやら何やらをはねのけたと言う。
そのため、花なんぞ不要の極みと、母は無意識に感じていたのかもしれない。


来週また弁当を届ける日があるならば、母にも花を買っていくかな。
私には、そのくらいのことしかできない。
優しい言葉をかけることができない、娘というより無骨な息子のよう。
朝の電話がないことを密かに祈りつつ。
でも、いつの日か、そう遠くない日に、その朝はやってくるのだ。