2012年9月1日土曜日

イラン式

前々回の続き。
映画「イラン式料理本」、上映は9月15日〜。
1973年テヘラン出身のモハマド・シルワーニ監督による
ドキュメンタリー作品。
登場人物は彼をとりまく7人の女性。
母、義理母、伯母、妻、妹、友人の母親、母の友人。
彼女たちが料理を作るそれぞれの台所で、
カメラは一カ所に据えたまま動かさず、
淡々とその様子を写す。
乾燥豆と米の炊き込みピラフなど、長時間かかる料理を
長年に渡り黙々と作り続けてきたと思われる母親世代の女性たち。
夕方から作り始め、出来上がるのは夜遅く。
それを男たちはわずか15分程で食べてしまう。
料理にどれくらい時間がかかるか知っているかと問うと
「さあ? 1時間くらいでは」と台所仕事の苦労をほとんど理解していない。
古い世代の中でも、義母はかなり口が立つ人で、料理を作りながら、
姑や夫への不平不満をぶちまける。
こんなに働かされると言いながらも、肉をこねる手を休めることはなく
「機械で作っては美味しくならない。手が美味しくする」のだと言う。
「大丈夫、手は2年前に洗った」などの冗談も。
一方、現代女性を代表する妻は、食材は何一つ出ていない
すっきりコンパクトなキッチンに終始クールな表情で立ち、
悪びれることなく缶詰のシチューを温める。
双子の男の子を育てながら大学に通う妹は、
元々時間がかかる料理に加え、段取りの悪さも手伝って
午前から作り始めた茄子の煮込みが出来上がったのは夕方近く。
その間、子供たちは調理台の上にまでのぼって暴れたりするが
それを注意する彼女の口調はさほど強くない。
なので子供たちはまるで聞く耳を持たない。
ペルシャ絨毯の上にビニールシートを敷き、座って食事をした後、
妹は食器を片付け、ビニールシートの上を台ぶきんで拭きながら
丸めていくのだが、その間、子供たちは父親とじゃれあって遊んでいる。
手伝ってちょうだい、と何回か声をかけるが、父子は無視。
彼女はため息をつくだけだ。
友達の母親という人は、なんと9歳で結婚、もうすぐ100歳になる
小さな老婆で、今はもう料理は作らない。

映画の宣伝情報では「家族が愛おしくなる、美味しい逸品」とあり、
監督のメッセージは「イランの女性たちへの讃歌だ」とある。
うーん・・・。そうかなあ・・・。
私にはそんなふうには受け取れなかった。

つまらなかったわけではない。
知られざるイランの台所の様子や
リアル(なんだろう)な女性たちの声は興味深い。
けれども、ここに出てくる女たちのほとんどは、
不平を言うか、黙々と作るか、諦めるか、放棄するか、
のどれかであり、それを見せられているこちら側としては
家族が愛おしくなるような気持ちにはなれない。
家族の男たちや、カメラのこちら側にいる監督や撮影スタッフたち
(彼らも食事をともにする設定になっている)
の視線はどこか困惑した居心地の悪いようなままで、
だから、彼女たちの讃歌どころか、
本当に理解する気などあるのだろうか、と思わされる。
じゃあ、同性として私は女性たちの気持ちがわかるのかといえば、
それもいろいろわからないことが多く、消化不良だ。 

そして、料理映画という観点からすると、
カメラはキッチンの反対側から動かないので、
かまど付近の様子や鍋の中などは何も見えない。
せいぜい、積極的な義理母がカメラの前に持って来て見せる、
ドルマ(ブドウの葉の包み)やクフテ(巨大な肉団子)くらいだ。
あとは、とにかく米と、スパイスを多種類使うということはわかったが、
新鮮な食材などは出てこない。
そのため「美味しそう!」というシズル感がない。
なんだか知らないが、とにかくやたらに時間がかかる料理ばかりという印象。
中東料理に興味を持つ者として、この点でも欲求不満だ。
もちろん、制作者は中東料理の魅力を披露するのが狙いではなく、
むしろその逆でいいのかもしれないが、
だったら、邦題「イラン式料理本」とはどういう意味なのか?
なぜかしら料理映画というとたいていが、しみじみとした、
愛情のある、癒し系な...etcのPRの持っていきかたを
されがちなのが腑に落ちない。
料理をメタファーに映画を作るのって、
難しいもんだなあとつくづく思う。
ちなみに、イラン国内では、この映画は上映が許されていないそうだ。




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