2012年8月10日金曜日

文集





もしも私がある日、犯罪者になったとして、
何が気になるかというと、
昔の写真だの文集だのを出されて、
私の人格を報道で分析されることである。
子供時代に文集でこんなことを書いていたから
やはり今こういう犯罪を犯すに至る人格なのだと
結びつけられるのはいかがなものか。
そのことを考えると私は犯罪に手を染めることはできない。
それでいいじゃないか、ということではあるのだが。

じゃあ逆に、私はいったいどんなことを書いていたのか。
人に公開されることにおびえるくらいなら、
いっそ自分で先に公開してしまえばいい。
先日載せた小1の絵日記とともに、文集類も残っていた。
とりわけ恥ずかしいものとして、上に掲載したのが小4の時の文集だ。

この時の文集では、ほとんどの子が「春になったら」という共通タイトルの詩か、
あるいは夏休みに友達と遊んだことや運動会などの思い出話、
担任の先生に対する思い、といったものを書いているのだが、
どういうわけか、私とあと一人だけが自作の物語をのせている。
ちなみにもう一人も女の子で、お金持ちにもらわれた捨て子の話である。

私の処女作?「ハンバーグとキュウリのぼうけん」。
ワタナベ容疑者は、すでにこの頃から食べ物に執着しているんですね、
と取り上げられるに違いない。
実際にはそんなことはなく、むしろこの頃までの私は偏食・少食で
給食も苦痛だったくらいだ。

なぜ、ハンバーガーなのだろうか。
何も記憶にないが、おそらく当時は現代と違い、
それほど身近な食べ物ではなかったので、憧れだったのかもしれない。
しかし物語に出てくるのはマクドナルドではなく、本田さんである。
当時、そんな個人店のハンバーガー屋などなかったはず。
しかも個人店でありながら、できあいのハンバーガーが
トラックで届けられている。本田さんは手抜き商売なんである。
よくわからないが若いお姉さんがふくろをあけている、
中身はバラバラのキット状態で、組み立てだけその場で行う方式なのか。

小さなキュウリの子(ピクルスのことだろう)とハンバーグの母親、
遺伝子の法則を完全に無視した奇妙な親子関係と、父親の不在。
残りのパンとからし(マスタードという言葉はまだ知らなかったのか)が
何であるかは言及していないツメの甘さ。
子どもは未体験の不安や恐怖をあらわしているのに対し、
なぜか自分の運命を知っており、なお動じない母親の不可解さ。
購入者は田沢さん、本田に田沢と名前が半端にかぶっているのも気になる。
田沢さんはなぜハンドバッグなんかにハンバーガーを入れるのか。
(まさかハンドバッグとハンバーガーの言葉を重ねたわけじゃないでしょうねえ)
そして、そこから逃げ出すところが物語の山場であるはずなのに、
ただ逃げ出した、とかなり内容が雑になっている。2ベージ目は誤字も目立つ。
だんだん書くのが面倒臭くなってきたのではないか。
極めつけは最後、
「田沢さんは今ごろなにしてるでしょうね」
「きっと親子の気持ちわかったでしょうね」
とよくわからない含蓄めいたオチ。知るかっ!
微笑ましいというより、むしろイラッとさせられるじゃないか。
更には、シュールすぎる絵。
キュウリの子がすでに思春期くらいに成長している。
(キュウリのイボでニキビ顔?)
"ハンバーガー" って工夫ゼロのキャッチコピー、ひ、ひどすぎる。
 突っ込みどころ満載である。
いかようにも、犯罪者の私の人格形成へとつなげられてしまう気がするが、
どうか一つ、ご勘弁願いたいものである。
たかだか10歳の子どもがたいして深くも考えず書いたものなんですからね。


しかし。犯罪うんぬんはないにしても。
例えばピカソのような天才は幼少期にすでに完璧な絵を描いている。
モノを書く仕事という点で、ハンバーグとキュウリのぼうけんの
クオリティ(の低さ)が今の私につながっていると見るのは
あながち間違ってはいないのかもしれない。
嗚呼おそるべし、文集。ちょっと悲しくなってきた。

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