2013年9月28日土曜日

もしもあと1週間で

仕事の合間に表参道のスパイラルマーケットに立ち寄った。
20代の頃、ここは憧れの
オサレーな店の一つで、
いつかはこんな素敵なモノたちに囲まれて暮らしたいと
妄想しながら店内を徘徊するのが楽しみだった。
今はそんな浮ついた気分はまるでない。
ということは、オサレーライフを実践しているんだろうか?
いや、ただ単に年をとっただけだな。
時折プレゼントを買ったり、CDをチェックする程度で
未だたいして買い物せずに徘徊するだけなので、
オサレーライフへの道のりはまだ遠い。

店内を一周半し、今日も特に何も買わず。

しかしその後の仕事まで20分ほど半端な余裕があった。
試食試飲を控えているため、カフェでコーヒーというのもちょっと。
スパイラルビルをご存知の方ならすぐわかると思うが、

しばしぼんやりしたりメールチェックなぞするのに好都合な
ベンチというか椅子が並んだ窓辺のスペースがある。
そこにとりあえず座ってみたら、一つあけて隣に座っていた、
顔の幅が狭くメガネをかけたアラフォーくらい?の外国人の男が話しかけてきた。
英語はできるか?と聞くので
できない、スペイン語なら少し、と答える。
できない、だけではなんだかかっこ悪いというか、
見栄を張って、
聞かれてもいないのに、スペイン語ならという言い訳をつけているのが
いじましい。

すると、その人はスペイン語に切り替えて話してきたではないか。
対応を断ったつもりなのに、ええっ?あら?そうなの。
ならばこちらは必死にスペイン語耳に切り替えて聞き取らないと。
たいしてできるわけでもないのだからにぃー。

自分はスチール&ムービーのカメラマンだ、
世界各地を回って、たった一つの質問をして、
その人の母国語で答えてもらう、というドキュメンタリーを作っているところだ、
協力してもらえないか?とのこと。
彼はイギリスからやってきたが、出身はブラジルだそうで、
だからポルトガル語と近いスペイン語もできるという。

そういう企画についてどう思うか?と言うので、

なるほどとても興味深いですねえ、でもすいませんねぇ、
私は時間があまりなくてこれから仕事に行かなきゃでムニャムニャ・・・
答えていたら、ipadを手渡された。
気づけばもうビデオカメラをまわされている。

おそらく翻訳機にかけたものだろう、ipadの文面は
おおよそわかるにはわかるが、奇妙な日本語になっていた。
それをまず指摘すると、スペイン語で正しい質問内容を言ってきた。


「あなたがもし、あと1週間で死ぬとわかったならば、
 何をしますか? それはどうしてですか?」

1つだけ共通の質問と聞いた時に、おそらくは、
一番大切なものは何ですか、とか、
あなたにとって愛とは何ですか、とか、
あるいは死についての質問だろうと予測したので、驚きはしない。
それに、この質問自体、わりによくある質問とも言えるし。

それでも、やはり、パッとは答えられない。
でも、でも、ビデオは回り続けているから、恥ずかしい。
早く答えなくちゃ。

どんなふうにしゃべったのか、よく覚えていないけれど、
「おそらく、特別なことはせずにいつもと変わらない生活を送ると思う。
 ただ、もう少しだけ、丁寧に過ごし、まわりのみんなに優しくしたい」
というようなことを答えたと思う。

どうしてか、は言うのを忘れた(正しくは、言えなかった)。
彼は日本語がわからないので、私が言い終えたと思って録画は終了。
これをドキュメンタリーに使用することを許可するとかたぶんそんなことが
書かれた短い文面にサインとメールアドレスを書くよう促された。

彼は日本に着いて2日目、私が最初の回答者らしい。
が、初来日ではなくもう5〜6回くらいは来ていると言うので、
だったら日本語が少しは話せるべきでは?
チクリと言ったら、確かに、でも難しくて・・・ってさ。


この質問に対する回答として、リアルを追求したならば、
何をするか・したいかよりも、
恐怖とか悲しみが先立って気が狂いそうになるかもしれない
と言うほうが自然な気もする。
エリザベス・キューブラー=ロス『死ぬ瞬間』で有名な
否認と隔離→怒り→取引→抑うつ→受容というプロセス。
それを1週間で、いや最初の数日で受容の境地にまで至って、
残りの数日を何かやりたいことをやって過ごす、なんて
とうていできそうにない。

何もできず悶え苦しんで(あるいはただ呆然として)死んでいくだろうと
答えるのもアリではあるだろうが
でも、今ここではそんなリアル感はおそらく求められていない。
質問は「何をするか?」だけれど、それは「自分はどうなると思うか」よりも
「どうしたいか」という希望を指しているんだろう、たぶん。


1週間の命かー。
3日だったら、もっとやりたい放題、
ハチャメチャなことしたいと思うかもしれないが、
1週間はそこそこ時間があるような気がする。
それに、果たしてハチャメチャって何なんだろうか。
日頃やったことのないことを傍若無人にやって快楽を得たいのか、得られるのか?
(死への恐怖を紛らすための行為という意味ではありえるかもしれないけれども)


なんか違うよな。
やり残したと思うことは、そんな突拍子もないことではなくて、
英語がしゃべれるようになるとかオサレーライフみたいな、
いつかそのうちにとナマクラしていたことではなかろうか。
でも、それを実現するには1週間では足りない。
また、それは何が何でもやりたかったのか、欲しかったのか、
というとそうでもないかもしれない。
あるいは、ハチャメチャではないけれども、
生まれ変わらなければできないような願望はある。
しかしそれは命の長さとは関係がない。
だから、結局いつもと変わらない日々を過ごす、と答えたのかな。
今考えると、誰もいない、どこか広大な美しい景色の中で過ごす、のもいいかな。

1週間では足りないけれど、と思う願望は、
じゃあどれくらいの時間があればできるのだろう。
ひょっとすると、一生も1週間もある意味、同じかもしれない。


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