2014年9月29日月曜日

5人目

今年の秋は9月27日にやってきた。
朝起きて、窓を開けた時に、金木犀の香りを感じたら
秋が始まったな、と私は思う。
最寄り駅の前の街路樹はイチョウで、
普通は実らない雄の木が植えられることが多いようだが、
どういうわけかここはほとんど雌の木らしく、
そこらじゅうにギンナンが散り落ち、
通行人や車によって潰され、強烈な匂いを放っている。
(拾い集めている人も時々見かけるけれども)
ベチャベチャで、駅までの道も一苦労だ。
しかしこの匂いは昨日今日に始まったわけではなく、
でもいつから始まったのかは、よく覚えていない。
秋の始まりを告げるにはあやふやだし、心地よくない。
一方、金木犀はある日、涼しく乾燥した空気に乗って、
最初はフッとさりげなく、でも確かにその日を境に一斉に香り出すのだ。
イチョウの一斉シグナルは落葉。
黄色いふかふかのじゅうたんが現れると、本格的な冬だな思う。


春は木の芽時、おかしな人が増えるとよく言われる。
では、秋はどうなのだろうか? 

昼間の電車に乗り、角の席に座って、少しウトウトしかけたら、
何か大きな声がしてハッと目が覚めた。
対面側の座席、私の斜め前くらいの位置に、
メガネをかけ、スポーツ用のフィットする服を着た、
ビバンダム(ミシュランのキャラクター)みたいな体つきの男が座っており、
一人なのに大声で話している。
まるで電話で受け答えしている話し方なのだが、
電話を持ってはいないし、耳にイヤホンなどもつけていない。
その男の異様さを察知して人が寄りつかないのか、
あるいはたまたまそうだったのかわからないが、男の両隣には誰も座っていない。
一方、私の座っている側はまあまあ席が埋まっている。
「うん、うん、ああ、それで? 次の駅で、うん、なに? 爆破? 
   爆破が起きるんだな。それで、5人死ぬと」
大変な事件が間もなく起こる、
その情報を冷静にキャッチしているデカ長といった感じだ。
しかし、爆破予告と共に被害に遭う人数をぴったり予告するというのはあまりないような? 
「爆破で、5人死ぬんだな? 1・2・3・4・5」
と、男は向かいの席に座る人を左から目で追い、順に数え始めた。
最後の5というのはどうやら私である。
はて、これはどうしたもんだろうか。

デカ長は私たちを見捨て、次の駅で降りていった。
とりあえず爆破は回避されたようである。
秋も秋でまた、おかしな人はやはりいるのであるねえ。


2014年9月21日日曜日

ロールプレイング

一昨日と昨日の2日間、私は↓こちらへ取材に行っておりました。

http://www.fbo.or.jp/?p=1005


セミファイナルに残った24名の唎酒師が、
ロールプレイング審査とプレゼンテーション審査により10名にしぼられ、
決勝では、同日開催された日本酒祭りに来ていた人たちも見学ができる
公開審査により、世界一の唎酒師が決定されるというもの。
私はこの団体の会報誌の編集を担当している。
そのため、仕事を差し置いて詳しい内容をここで書いてしまうわけにはいかない、
よって、まあ、脱線話を少々。

ロールプレイング審査とは、会場にテーブルや椅子を設置して
客席に見立て、お客(審査員)からの質問に対し、
的確に(更にはより気の利いた内容で)答えられるか、
会話をしながらもサービスする手や動きはスムーズか等が審査される。
私は24名全員の審査を見学したのだが、
お酒に関する説明やサービスは比較的できているのに対し、
お客を迎え入れて着席させ、メニューを渡すといった一般的な接客が
今ひとつな人が目立ったことが気になった。
おそらく西洋式のレストランよりも居酒屋などで働いている人が多いのだろうな。
椅子を引いたり女性を優先するなど、日頃行っていないのだろう。
しかし場の設定はナイフフォークが並び、ワイングラスに酒を注ぐレストラン仕様だ。
世界大会であるため、アメリカやアジア圏から来た選手もいて、
さすがに彼らはそのへんのことは慣れた所作だった。

決勝大会の公開審査においても、同様のロールプレイングが行われた。
壇上でスポットライトを浴び、大勢の観客が見つめるなか、
彼らの心境を想像すると、こちらまでドキドキしてくる。
せめて観客の眼光2つ分だけでも減らしてあげたくなり、
メモ帳に視線を落としてしまう。

だって、アタシも経験があるんだもの。
(ポアポア〜ンと白い煙インサート、回想シーン)
あれは、某ファミレスのアルバイト。
まだ私が制服のミニスカートのワンピース(7号サイズ)を着られた時代。
社内規模ではあったけれども、サービスコンクールが定例で行われていた。
客席で接客を担当する係と、店内誘導及びレジ係のペアで各店舗より出場し、
地区予選からスタートして、最後は全国大会へと勝ち進んでいく方式。
私が勤務していた店からは、
レジ係はいつも冷静沈着なベテランのN先輩、そして接客係は
どういうわけか私が出ることになってしまった。
指名したのは、地域の店舗数店を統括するDM(ディストリクト・マネージャー)だ。
決して私のサービスが秀でていたわけではないので、
コンクールでも度胸がありそうだというその一点だけで買われたのだろう。


ちがうちがうそうじゃそうじゃない(by鈴木雅之)
その一点とはどこにもありはしない、勝手なイメージだ。
当時、ロールプレイングなんて言葉も知らなかったが、
そんな寸劇みたいなことを人前でやるなんて、とんでもハップンなんであるよ。
しかも、勤務していた店は、過去にそのコンクールでそこそこいい所まで
行った功績があり、そのプレッシャーまでかけられている。


細かいことは覚えていない。思い出したくないからかもしれないが。
覚えているのは、お客から「タバコを買ってきて」と言われたこと。
私はどこまでの演技をすればいいのかよくわからず、
本当にそこに自販機があるとイメージして、
小銭(もちろん実際には何もない)を入れて、銘柄をちょっと探すフリをし、
ボタンを押し、下から取り出す細やかなパントマイムをしたのだが、
周囲で見ている審査員たちになぜか失笑された。
次に「店長を呼んで」と言われ、しかし店長は不在ということになっており、
私は自分で何とか対応しようとしたが、うまくいかなかった。
(名前と電話番号を書いてもらい、後ほどご連絡しますと言えばよかったらしい)
隣町の店舗でこの審査が行われたのだが、
同じ店のバイト仲間がその他のお客役というシチュエーションで周りの席に座っており、
何がイヤって、身内に見られていることが恥ずかしくて
すっかりテンパってしまったのだった。


敗退後、DMは私に「ワタナベがあんなにあがるとは思わなかった」と言った。
ちなみにこのDMは別のある時、「ワタナベは将来どんな仕事に就きたいのか?」と
聞いてきたので、「編集者になりたい」と答えたら、
「フンッ。現実はそんな甘いもんじゃないよ」と鼻で笑われた。
いろんな意味で、人を見る目がないDMであった、ということになろーか。




2014年9月11日木曜日

シェフ104号発売!!





『シェフ104号』秋号、本日完成です! 
書店売りは9月25日です。
直販は本日より承りますので、よろしくお願いします!! 

特集は、定番からの進化シリーズで「サーモン」料理です。 
ラ・メゾン・クルティーヌ、モノリス、エミュ、
ラ ターブル ドゥ ジョエル・ロブションに製作いただきました。

好評のグランシェフはミチノ・ル・トゥールビヨンとオー・プロヴァンソーです。

新連載「マダムインタビュー 私流サービス論」では
オー・コアン・ドゥ・フーに取材しています。

この他に、サンス・エ・サヴール、ル・ブション、エッサンシエル、
シグネチャー(マンダリン オリエンタル 東京)、レストランKAIRADA、
ル・ジュー・ドゥ・ラシエット、アニエルドール、ビストロ デザミ、
ビストロコンフル、ビストロ雪が谷、レストランパフューム、
レストラン バカール、コラージュ(コンラッド東京)、ル ボークープ、
シュマン、カシーナ カナミッラ、Restaurant UOZEN、オマージュ、
パティナステラ、HATAKE AOYAMA、アクアヴィット、
ドミニク・コルビ氏を掲載しています。


ご協力ありがとうございました。

2014年9月4日木曜日

初訪・小豆島

(前回のブログの続きとして。
 父の件、ご心配おかけしました。おかげさまで小康状態になったため、
 とりあえず退院できました。発作が起きないことを祈るばかりです)


小豆島に行っておりました。
半分仕事で半分遊び、いや、仕事にかこつけてのほとんど遊びで。


『SPICE CAFEのスパイス料理』の著者、伊藤一城シェフの知人で
フリーの編集者である神吉(かんき)邦弘氏が橋渡し役となって、
小豆島のUmaki Campにて出張料理教室が行われることになったのだ。

↓Umaki Campはこんなところ

http://umakicamp.main.jp/

私は別に同行する義務はなかったのだが、
まあ、アシスタントがいたほうが何かと便利じゃろうと。

伊藤シェフと神吉氏は成田からジェットスターで片道約5000円。
私は羽田からANAで、早割を利用してもその約3倍強のお値段。
くぅ〜なんという価格差だ。
私が朝イチの成田発の便に乗るには、前夜から成田入りしなければならない。
ビジネスホテル代を足してもまだ安いのだけれども、
なんだか大げさになってしまうので諦めた。

高松の港で合流し、高速艇で45分。
天気予報では、雨と雷マークが出ていたのだが、
島に降り立つと、南国の強い日差しに出迎えられた。


現地コーディネートをしてくださったのは大塚一歩氏。
ウマキキャンプに入る前に、小豆島の名産の一つ、醤油の蔵に連れて行ってもらう。
こちらは「ヤマロク醤油」さん。

http://yama-roku.net





濃厚な香りがぷわーんと漂う。高さ2mの杉樽がずらりと並ぶ姿は圧巻だ。
100年以上前と変わらぬこの環境には、樽の壁面や土壁などそこらじゅうに
無数の酵母菌やら乳酸菌やらが着いており、それが美味しい醤油を造り出すのだそうだ。


アートの島というと直島のイメージが強いが、
プロジェクトは瀬戸内の各島なので、ここ小豆島でも
あちらこちらで作品が見られる(ウマキキャンプもその一環だ)。
ドライブしながら、何だあれは? を発見するのが愉しい。



続いて魚の卸業者へ。
シェフはここで小アジと活ワタリガニを購入。イベントで使ってみるらしい。
写真の魚はベラ(買っていないけど)。


関東ではあんまり価値がなくて釣り人にも捨てられたりしている魚だと思うが、
瀬戸内のは美味しいらしい。
店のおじさんが「バーベキューやるならこれがちょうどええ」と
何度も何度もそう言ってすすめるのだが、
私たちはBBQをやるとは一度も言ってないんですけどねえ。
どうちょうどええのか、聞きそびれた。


見所の一つ、中山地区の棚田を眺めつつ、



「HOMEMAKERS」を訪問。

http://homemakers.jp/

こちら、三村ご夫妻が、有機野菜を栽培&販売、
古民家の自宅を改修してカフェも営んでいる、オシャレファーマーである。
ここでもシェフは、イベントに必要な野菜や、
必要じゃないけど欲しくなっちゃった野菜をあれこれ購入。










会場入りするやいなや、準備にとりかかる。
シェフの指示のもと、私は、買ってきた数十匹の小アジのセイゴや内臓を取り、
スパイスをミックスしたペーストに漬け込んだり、米3キロをといだり。
ウマキキャンプはガラス張り、半オープンエアのような建物で、
火を使っていると温室状態、たちまち汗びっしょりに。
普段は冷房の中でヌクヌク、いや、冷え冷え状態に慣れているため、
これほど汗をかいたのは久しぶりである。
手ぬぐいを首に巻きたくてたまらない(けれど持っていないのでタオルハンカチを
濡らして首裏にはりつける)。
お気に入りのエプロンがターメリックで染まってしまいショックだが
そんなことも気にしていられない、あっという間に開始時間となった。






参加者は20名。募集時にはすぐに定員となりキャンセル待ちも出ていたという。
(昼に訪問した三村夫妻も参加している)
島の人たちだけでそう簡単に集まるものなのか、不思議な気がした。
更に驚いたのは、参加した人たちがとっても好奇心旺盛で積極的なこと。
最初からシェフにあれこれ質問したり、反応が明快、和気あいあいムード。
東京とは明らかに違うなあ。
蚊が多く、蒸し暑かったり、こちらの準備不足で不手際があったり、
という状況だったので、もし私が参加者側の立場だったら、
きっと不快に感じて顔に出してしまったのではないかと思うが、
そんなイヤミな人は皆無だった。
参加者同士、顔見知りが多かったということもあるようなのだが、
一人一人が個性的で魅力のある人たちなのだ。

情報にあふれる東京と異なり、
地方では、貴重なチャンスをできる限り有効に使いたいという思いが強いのかもしれない。
全員に聞いたわけではないのだが、島出身よりも他からの移住者のほうが
ひょっとして多いようだった。
島で暮らしていると、こんなふうになるのかあ、
なんだか羨ましい。
シェフのデモンストレーションの後は、4班に分かれてチキンカレーの実習。
ますます会場は盛り上がっている。
事前にシェフが仕込んでおいたワタリガニカレーとサンバル、
私も手伝ったアジのスパイス焼きなどと共に試食いただいた。
最後は皿洗いまで参加者が分担して手伝ってくれて、まったくもぅ、
ヒデキ、感激!!である。








翌日は、大塚氏の案内で、いろんなところを巡った。ありがたや。
こちらは碁石山から見た瀬戸内の風景。



知らなかったが、小豆島内だけで八十八カ所霊場があり、
歩きだとちょうど1週間のお遍路コースになるという。
四国のそれは規模が大きくて、そう簡単にトライできそうにないが、
1週間ならちょうどいいかもしれない、と少々惹かれる。
実際、小豆島お遍路女子だかガールだかの動きもある。
しかしどうだろう、私はそのガールの範疇なのか?
もはやリタイア組に入れてもらうほうがしっくりするのではないか?

碁石山は第二番の霊場、こうした山岳霊場が多いのが小豆島の特徴だそうだ。
ここには天然の洞窟(岩屋)があり、波切不動明王が祀られている。
住職の奥さんが、前夜の料理教室に参加していた方でびっくり。
護摩焚きしてみませんか?と誘われ、
シェフと神吉氏と私の3人でやっていただくことに。
個別の祈願が書かれた木の棒を自分で一つ選ぶ。
風光明媚な土地と、人々の優しさに触れ、
ピュアだか開放的だかの気分になっていた私は「良縁成就」を手にしていた。
しかし手にした途端、我にかえり、恥ずかしくなった。
キサマ、護摩ガールのつもりか?
辱めはまだ続く。その木に自分の名前と数え年を書けという。
いきなりそこにいる人たちみんなに、私の年齢(数え年だからプラス1歳)を
公表することになってしまった。
ぜんぜんガールじゃないってバレた。
そこにいる人たちの中で(住職夫妻やアテンドの大塚氏も含め)私が一番年長者だ・・・。
けれど、私は別に今まで詐称していたわけじゃないのだからね、
ナンだバカヤローと荒井注になる。

更には、ハンニャハラミタ云々・・・と、
住職夫妻が実に見事なハモりのお経を洞窟内に響き渡らせる神聖で感動的な祈祷において、
3人各自の名前と数え年、祈願タイトルを唱えられた。
洞窟に響き渡る我が願望、我が歳。嗚呼。
荒井注を越えて無の境地になるより他に道なし、と。

木がメラメラと燃える炉に手をのばし、その手で自分の体を撫でる。
ここで、私はハタと気づいた。
なぜ、父の健康祈願をしなかったのか。
自分の強欲さに心底びっくりした。
不動明王さん、ゴメンナサイ。
追加で、いや、さっきのは取り消しでいいから、
ここはひとつ、家内安全でお願いしますっ!!



塩の工房にも行きました。
小豆島は、醤油よりも塩の製造の歴史のほうが古いのだが、
今では作られなくなり、たった1軒しかない。
「塩屋  波花堂」さん。その名も“御塩(ごえん)”という塩を手作りしている。


こちらのオーナー、蒲ご夫妻は外からの移住者で、つまり歴史ある老舗ではなく、
ゼロからのスタートで40年ぶりに小豆島産の塩を復活させたそうだ。
なんと、こちらの奥さんも昨夜のイベントの参加者のお一人であった。
まさに“ごえん”だなあ。

↓ちょうど、つい最近、無印良品で販売されるようになったらしいです。

http://www.muji.net/lab/blog/shodoshima/025270.html


小豆島といえばオリーブが有名。
でも、純粋な小豆島産オリーブで作られたオリーブオイルの販売は時期が
限られているし、すぐに売り切れてしまう。
年間通して販売されているのは、海外から輸入したものだ。

↓こちらは、スペイン・アンダルシアから移植された樹齢1000年以上のオリーブの木。
 東日本大震災の翌日に小豆島に到着したそうだ。
 背丈はそんなに高くないのだが、がっしりこんもりとしており、青い実がなっていた。



それから、そうめん。
大塚氏のお宅で出された、奥さんお手製のそうめんのジェノヴェーゼがとっても美味しくて。
真似したい!と思った。
普通のそうめんよりも太く、ツルッとした舌触りとモチッとした弾力が何とも心地良い。
↓こちらの製品の太口タイプを使っているそう。

http://www.kinosuke.net

パッケージがオシャレで(お値段も高級)、
東京では自由が丘のTODAY'S SPECIALや渋谷ヒカリエなどで販売されている。


製造場も訪問したが、そうめんが作られるのは乾燥して晴天の多い冬場だそうで、
残念ながら見られず。繁忙期は明け方3時から作業するんですってよ。



まだまだ旅の報告はあるのだが、そろそろ疲れましたのでこのへんで失礼します。

夕日が沈むまで、ぼんやり眺める時間が、贅沢でした。




2014年8月15日金曜日

父の涙

前回のブログをアップしたその時、ちょうど電話が鳴った。
夜の9時半くらいだった。
相手は母ではなく、病院の看護師だった。
「お父さんがまた喀血しまして、担当医からお話があるので、
 お母様と一緒にこれから来ていただけないでしょうか?」
病院に駆けつけると、父は再び喀血しているらしく、
看護師の垣根の向こうでえづく声が聞こえる。
私たちは、そのとなりの小部屋で医師の話を聞く。
担当医は過去に父が通院していた時の主治医とは違うようで、
私よりもずっと若いお兄さんだ。
カーボン式のノートに病名や症状を書く、その字の丸っこさといい、
風邪気味なのか、時折鼻をすすりながら「実は〜」を連発して説明するその雰囲気は、
まるで、インターネットの加入手続きか何かを行う販売員のようだ。

今夜が峠だと言われるのかと思ったが、そうではなかった。
しかしホッと一安心、はできなかった。
長年、非結核性抗酸菌症という病を患っており、抗生物質が効かなくなっていること。
(結核と異なり、人から人への感染はないが、今や完治可能の結核に比べ、
 非結核性はズバリと効く単一の薬はまだない)
肺全体に出血が見られるので、どこか一部を切り取る手術をすれば治る
というものではないこと、いつまた喀血が起きるかは予測不能、
問題は、もし大量の喀血が起きた場合には、窒息死するということです。
その時はしばらく苦しくてかわいそうですが、
ただ、数分で気を失います。


つまり、知らせが来ても間に合わないわけですね?
などと、私は意外に冷静に質問しているなあ、と私が思う。
なぜ先生は鼻をすすっているのだろうかなあ、とも思う。
こんな小さな部屋なのに、まるでとなりの部屋にいる父にも聞かせたいのか、
と思えるくらい、やたらと声がでかいセンセーだなあ、とも思う。
感情というものがわいてこない。

がんなどと異なり、余命何カ月です、とは言えない状態。
今日か明日かもしれないし、あるいは来年かもしれない。
峠などはなく、一発ドカンでさらばの地雷だ。
そして、致命傷には至らずとも、軽い爆発は今後も頻繁に起きる。

部屋から出ると、父は容態が落ち着いたようで、眠っていた。
母と私は終電に乗った。
「これから、どういうふうにしようか? 見舞いの体制というか・・・」
「うん、大丈夫、今度からはちゃんとシルバーパス、下駄箱の上に置いとくから」
噛み合っていない。
母はシルバーパスを持って出るのを忘れ、切符を買ったことを悔やんでいた。
こんな時でも、そんなことを考えられるのだ、人は。

終電は3駅手前止まりだったので、
そこからはタクシーで親の家に行き、私は初めて泊った。
いつ着ていたか記憶にないくらい昔の私のパジャマが出された。
実家を売り払って両親がここに移り住んだ数年前、
相当のガラクタを処分をしたはずなのに、
なぜこのパジャマは持ってきたのだろうか?

母と床を並べるなど何十年ぶりだろう。
カチカチと音のする時計がうるさいが、
耳が遠くなっている母には気にならないのか。
私は一睡もできなかったが、
背を向けた母から寝息が聞こえ始めたのも、明け方近かった。

それが土曜の夜。
あれから今日まで、とりあえず父の状態は落ち着いている。
決して贅沢をしないうちの親は、本当なら大部屋にいるはずなのだが、
集中治療室に入った後、大部屋のベッドに空きがなくなったため、
今は個室にいる。病院の都合なので、差額は払ってくれるらしい。
ラッキーじゃん、と言うと、そうでもないらしい。
一日中、壁か天井を見続けて頭がおかしくなりそうだ、
大部屋ならば、人間ウォッチングをして少しは気を紛らせられるだろうから、と。
テレビも個室なら見放題なのに見る気がしない。
ラジオは電波の入りが悪い。
読書好きなのに、数行読んではやめてしまう。
点滴やら血中酸素濃度計やらが常に体についており、
足腰がめっきり弱々しくなったため、廊下を散歩することもできない。
入院すると、途端に認知症まっしぐらになる人が少なくないと聞く。
この調子では父も危うい。
私はどうにかして、それだけは阻止したいと思い、
クロスワードパズルや、ペン習字練習帳(父は習字を習っていたため)、
よりぬきサザエさん(戦後の話だから)、
東海林さだお氏のエッセイ(料理をする父に昔あげたらおもしろがったので)など
気軽に楽しめそうなものをベッド脇に置いた。
本当はDVDプレーヤーで映画を見せるのがいいのではと思うが、
機械の操作や充電など、ややこしいものは無理そうだ。

今日、父の病室に、孫が来た。
バツイチである弟の息子である。
離婚でもめ、基本的に弟は息子に面会できない。
が、父の状況が状況なので、弟が連絡を入れたところ、
弟とは別に、彼は彼でジイちゃんを見舞いに行くという。
そのため、今日、彼に会うのは弟を抜いたジジババと私の3人。
かれこれ10年以上ぶりの再会だ。
私が病室に近づくと、すでに甥っ子が中にいてジジババと話しているのが
わかったため、しばらく3人での時間にしようと思った。
20分程、廊下で待った後、私も中に入った。
幼児だった甥っ子は、高校2年になっていた。
優しそうな男の子だ。
彼にはほとんど記憶がないが、ジジババは超がつく程の孫バカだった。
特にジジはそうで、また、甥っ子も特にジジのことを慕っていた。
そんな思い出話をしていたら、
父は「会いに来てくれて、こんなに嬉しいことはないよ」と泣き出した。
ホロッときたというより、大泣きだ。
私は、おそらく、生まれて初めて父が泣く姿を見た。

そんなに嬉しかったんだ。
それはよかったね。何かと親を困らせてきた弟だが、
父を喜びで泣かせる孫という存在をこの世に生み出した、
その1点だけで、帳消しになるんじゃないか、と思った。
私にはそれをしてやることはできなかった。



2014年8月9日土曜日

朝の電話2

一昨日、再びの朝の電話が鳴った。
母からだった。
前夜のメールでは、うまく行けば、
月曜あたりに退院できるかもという話だった。
「今、病院からなんだけど、お父さん、大量に喀血してね、集中治療室入った」
朝の電話は心をざわつかせるが、
朝4時前に病院からの電話で呼び出された母はもっと驚いただろう。

「喀血って何それ・・・」
「前からちょいちょい喀血はあったんだけどね」
「ええっ?」
本当にうちの親は何も子供に報告しない。
前々から肺の病を患っており、今入院している病院に通院していたのだという。
腎臓系の疾患で入院したのだが、
呼吸器科のいつもの医師に主治医が切り替わった。

「とりあえずもう大丈夫になったから、あんたは今は来ちゃダメ」
と言い残し、電話は切れた。
私は自分が幼稚園児くらいに思えた。

昨日、実家へ母の食事を届けた。
それを食べた後、一緒に病院に行くことにした。
昨日はダメだと言った母も、やはり一人の見舞いは心細かったのだろう。
父は、無数の管を通された状態で横たわっているのだろうか?
どんなふうに声をかければよいのだ?

集中治療室にはもういなかった。
その近くの病室に移されたところで、
父は点滴や酸素の管などをつけてはいるものの、自分の足で立っていた。
ホッとする母。
この2〜3日の出来事を私に報告する父。
すでに母から聞いている内容。一言一言を発するのがのろい。
しかし、父はしゃべりたいようなので、じっとただ聞いた。
久しぶりにまじまじと見つめ、父はこんな顔だっただろうか、と思う。
自分の中の父親は、おそらく50代くらいの頃のイメージで
とまっているような気がした。


トイレで大量に血を吐いた時に、つい流してしまったが、
「なんでそこでナースコール押してくれないのか、血を見たかった」
と看護師に言われたという。
人の汚物を観察したり処理したり、体を拭くなどを
厭わない看護師たちに、尊敬と感謝の念に堪えないと父。
「ほんとに。赤の他人なのにねえ」と私が相づちを打つと
「身内だってできないよ、おまえには無理」と言う。
その通り、私には看護師の仕事などまったくできないと思うが、
もしも親が要介護となったならば、どうなのだろうか。
無理ときっぱり言われ、集中治療室に来るなと言われ。
子供に迷惑かけたくない一心なのだろうけれど、
この子なら、まかせてもきっとやってくれるだろう、
という信頼がされていないような気もする。

入院の書類に、保証人として私は捺印した。
どんなことがあっても、どんなささいなものでも、
人の保証人にだけはなってはいけないと両親から口うるさく言われてきた。
それがいま、初めての保証人、初めて親の保証人になっている自分。
朝の電話にビビっている場合じゃないのだよな。




2014年8月2日土曜日

朝の電話

一日の中で最も健全な空気に包まれている朝にかかってくる電話は
どうして不吉な予感がするのだろうか。
昔の黒電話に比べたら、電子メロディ音はそれほど怖くないけれど、
それでも、なぜか、ドキリとさせられる。
昨日の朝の電話は母からだった。
「あのね、お父さんが夕べ、救急車で運ばれて・・・」
普段と違う、ゆったりとおだやかな口調が、怖さを助長する。
次の言葉を聞くまでの1秒かそこらの間、
私は「死んだのか。ある日突然、こんなふうに親の死がやってくるのか」と思った。
ベタなドラマのワンシーンのようだった。

結局、命に関わる程ではなかった。
熱中症とはまた違う病状ではあるが、ある種そのようなもので、
体力が回復するまでの間、入院ということらしい。
入院するにあたり、関係者3人の電話番号を病院に登録する必要がある、
それで万が一、私のほうにかかってきてびっくりするといけないと思い知らせた、という。
もし連絡先の登録がなかったら、おそらく昨日の電話はなく、
退院後の報告だったに違いない。
うちは、そういう家である。

そのため、まだ病院には行ってない。
父の身の回りの世話は母が行っているので、
私は後方支援担当として、母のための食事をいろいろ作り、弁当にして届けた。
父用に、小さいブーケと、100円ショップで購入した花瓶代わりのグラスを母に託した。
大げさなこと、贅沢を嫌う父なので、あえてささやかにしている。

どういうわけか、ブーケをほどき始める母。
「何しているの? まさかここで花瓶に挿して持っていくんじゃないでしょうね?」
「えっ ? あ、これ、お父さんにあげるの?」
私は家に着いて開口一番、「これ、お父さんに」と言ったのだが
それが母の耳には聞こえていなかった。
しかし、母の日でもないのに、ましてやこんな時に、
実家にブーケを花瓶つきで持っていくことをなぜ不思議だと思わないのか。

病院から入院に必要な物リストを渡され、それに従って持って行ったのに、
父は「こんな物いらない」とフォークやら何やらをはねのけたと言う。
そのため、花なんぞ不要の極みと、母は無意識に感じていたのかもしれない。


来週また弁当を届ける日があるならば、母にも花を買っていくかな。
私には、そのくらいのことしかできない。
優しい言葉をかけることができない、娘というより無骨な息子のよう。
朝の電話がないことを密かに祈りつつ。
でも、いつの日か、そう遠くない日に、その朝はやってくるのだ。